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カモメが飛ぶ日  作者: Tohna
苦闘の始まり
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第51話 ボールとチームの行方

 九十五分。十一月の冷たい海風が止まった。静寂がスタジアムを支配した刹那、村雨蓮の右足がボールを叩く鈍い音が川島製鉄アリーナに響いた。


 ボールは、夕闇の迫る幕張の空に鋭く、銀色の放物線を描いた。


 ターゲットは一つ。


 アンギーラ守備陣が構築した壁の向こう側だ。


 密集する人混みの中、誰よりも早く予備動作に入り、爆発的な跳躍を見せたのは、最後尾から駆け上がった守護神・粟尾だった。


「おおおおお!」


 粟尾の咆哮が、一九〇センチを超える巨躯と共に空中で炸裂する。


 アンギーラの代表センターバックが必死に腕を絡めるが、守護神の気迫がそれを弾き飛ばした。


 ボールは粟尾の頭ではなく、競り合った勢いで右肩の付け根――まさに袖の境界あたりを直撃した。


 不規則な回転を始めた球体は、アンギーラのGKが差し出した指先をあざ笑うかのようにすり抜け、ゴールネットを激しく揺らした。


 四対三。逆転。


 スタジアムは、もはや物理的な振動を伴う狂乱に包まれた。


 カモメボーイズたちが掲げるフラッグが、まるで荒れ狂う海のようにうねり、山際社長は貴賓席で椅子を倒しながら立ち上がった。



尹が、中野が、そして泥だらけの粟尾にサブの選手までが飛びつき、歓喜の塊がピッチに出来上がる。


 一方、王者の座から引きずり下ろされたアンギーラの選手たちは、冬の芝生に糸の切れた人形のように項垂れていた。


 しかし、その絶頂の瞬間、主審の笛が短く三回鳴った。右手が耳に添えられる。


「……VARチェックだ」


 町島が呻くように呟いた。


 スタジアムを支配していた熱気が、一瞬で凍りついた。


 モニターを見つめる主審の背中が、あまりに長く、残酷に感じられた。


 五分に及ぶ協議。


 大型ビジョンには、粟尾の肩口を極限までクローズアップした映像が繰り返し流される。


 ボールが触れたのは、スリーブ(袖)の境界より数ミリ下か、それとも上か。


 主審がフィールドに戻り、無情にも自らの右腕に触れるジェスチャーをした。


 ハンド。肩口にあたったボールが「腕の付け根」よりわずかに下であったという判定だった。


 主審に詰め寄るガビアータイレブン。


 しかしゴールは取り消され、スコアは三対三に戻された。そのまま再開の笛が鳴る暇もなく、試合終了が告げられた。


 ガビアータ幕張、勝ち点一差での準優勝。


 奇跡の逆転優勝というおとぎ話は、デジタルな判定の冷徹さによって、最終章の直前で書き換えられた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 試合終了直後、川島製鉄アリーナの貴賓室裏にある特別会議室。重苦しい空気の中、親会社の役員たちが帰り支度を始めていた。


「……残念だったな、山際君。あと数ミリ幸運が上だったら、売却価格に数億色をつけたんだがね」


 財務担当役員が、冷めた表情でブリーフケースのロックを鳴らした。


「売却先は既に香港の投資ファンドで内定している。月曜日の午前中には調印だ。これは決定事項だ」


 山際は中肉中背の体を小さく震わせ、拳を握りしめていた。その時、重厚な扉が音を立てて開いた。


 そこに立っていたのは、成田から駆けつけ、BVミュンヘンのバッジを胸に光らせる日向だった。


「お疲れ様です。……皆さん、お帰りのところ申し訳ないんですが、その『内定』とやら、僕がすべてひっくり返しに来ました」


 以前と変わらぬ、人を食ったような薄笑い。


 だが、その瞳には刃のような鋭利な知性が宿っていた。


「日向! 貴様、どの面を下げて……裏切り者が今更何の用だ!」


 激昂する財務担当役員である鎌田専務を制し、最高実力者である敦賀が静かに口を開いた。


「……面白い。日向君、君はマネジメント・バイアウト(MBO)でも提案しに来たのか? だが、取締役会は既に売却を機関決定している。法律的には、君のような『部外者』が口を挟む余地はないぞ」


「さすが、重厚長大のジャパントラディショナルカンパニーの代表格、川島製鉄の社長さんだ。鋭い鋭い」


 日向はそう皮肉って続ける。


「いいえ、口を挟むどころか、その決定は法的瑕疵(かし)により『無効』です」


 日向はテーブルに一束の書面を、まるでトランプのカードのように叩きつけた。


「会社法四百二十九条、および取締役の『善管注意義務』違反。敦賀さん、あなた方は重大なミスを犯した。現在、ガビアータの市場価値は、今日見せた『虜にするフットボール』と、爆発的なサポーターの支持によって急騰しています。地域住民の猛反発を無視し、適正な入札プロセス(公開オーディション)を経ず、特定のファンドへ格安で売却することは、株主に対する明らかな背信行為だ」


 日向は一歩、役員たちの方へ歩み寄った。


「僕の手元には、ドイツの投資家と島会頭ら地元有志による、内定先の二倍の買収オファーがあります。この価格差を知りながら売却を強行すれば、僕は即座に株主代表訴訟を支援し、プロキシ・ファイト(委任状争奪戦)を仕掛けますよ。今の世論なら、あなた方は全員解任、特別背任で訴追されるリスクもある。……知らないかもしれませんが、僕、司法試験を通ってますんで、法律は皆さんよりも百倍は詳しいですよ」


 静まり返る会議室。日向は最後に、少しだけ声を和らげ、敦賀を真っ向から見据えた。


「……敦賀さん。このチームを、川島製鉄の『不良債権』から、幕張の『資産』に変える。それが、僕がドイツで整えてきた最高の逆転スキームです。


 ハンコ、こちらに変えませんか? 外資に売るより、地元に売った方が株主への説明もつく。……Win-Winでしょう?」


 敦賀はしばし沈黙した後、ふっと口角を上げた。


「……リフティングだけでなく、交渉も多少は上達したようだな、日向君」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 貴賓室での火花散る攻防をよそに、ピッチでは表彰式が行われていた。


 このカワアリでどちらが勝っても優勝だったので、JSLリーグ一部優勝のシャーレが持ち込まれていた。


 銀メダルを首にかけた選手たちは、誰一人として笑っていなかった。わずか数ミリの差で逃した栄冠。その重みに、若き奈良崎は顔を覆い、中野は悔しさに奥歯を噛み締めていた。


 だが、ゴール裏のカモメボーイズたちは、かつてのような暴動も罵声も起こさなかった。


「……ありがとう! ガビアータ!」「最高の試合だったぞ!」


 木下祐誠がメガホンを握り、ピッチへ向かって声を枯らした。


「……日向がいなくなって、坂上がいなくなって、それでもお前らはここまで来た! 俺たちは誇りに思う! あと一つ、エンペラー杯が残ってるだろ! 元旦まで、俺たちの夢を終わらせるな!」


 選手たちを代表して、キャプテンの鈴木がマイクの前に立った。


「……今日は、勝てなくて本当に申し訳ありません。でも、今日僕たちが最後まで走れたのは、誰かへの怒りでも、親会社への意地でもなく、ただ、皆さんのチャントが背中を押してくれたからです。ガビアータは、僕たち選手だけのものじゃない。この街の、皆さんのものです。……必ず、元旦に国立で、この借りを返します!」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アリーナは耳を劈くような歓声に包まれた。

 

 その喧騒の端で、山際社長は、会議室から出てきた日向と目が合った。


 日向は、まるで「コンビニに行ってきます」とでも言うような軽い足取りで歩み寄り、町島と山際にウインクして見せた。


「……山際さん、マッチー。お待たせ。カモメを買い取る資金、満額用意できました。……さて、国立へ行く前に、祝勝会ならぬ『独立記念会』でも開きましょうか。マッチー、配信の準備はいい?」


 親会社の呪縛を解き放ち、本当の「市民クラブ」へと羽ばたくための翼。


 日向が孤独の中で磨き続けたその翼は、今、幕張の夜空へ向かって力強く広がろうとしていた。

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