第50話 移籍してきた者達の矜持
絶望がスタジアムを支配し、アンギーラサポーターの凱歌が幕張の夜空を支配しようとしていたその時、ガビアータのベンチに座る須賀川が、ゆっくりと腰を上げた。
彼は、日向が残していった膨大なデジタル・データの残響と、自分がこれまでピッチで吸ってきた芝の匂いを天秤にかけ、一つの「狂気」を選択する。
「奈良崎、下げだ。……村雨、準備しろ。お前の泥臭さを、この熱いなスタジアムにぶち撒けてこい」
後半二十分。エースの奈良崎を下げ、左ハーフの職人・村雨蓮をトップ下へ投入。
この不可解とも思える采配に、スタンドからは戸惑いの声が漏れた。しかし、この瞬間から、ピッチの物理法則が歪み始めた。
村雨のプレースタイルは、洗練された現代サッカーへの反逆だった。
彼はどこにでも顔を出し、相手の足元に泥だらけの身体を投げ出し、審判の死角でユニフォームを引っ張る。
奈良崎という「美しき計算」に慣れきっていたアンギーラの守備網は、この「予測不能な不純物」の登場に、初めて目に見える混乱を見せた。
「龍玄)! そこだ、ぶち込め!」
後半二十五分。村雨が死に物狂いで奪い返したこぼれ球が、放物線を描いて右サイドへ流れる。
そこにいたのは、移籍騒動で一度は心を砕かれながらも、幕張の熱狂に再び命を吹き込まれた尹龍玄だった。
彼の咆哮と共に放たれたヘディングが、王者の牙城を初めて崩した。
一点。
スタジアムの温度が、一気に数度跳ね上がった。その熱気に押されるように、須賀川はさらなる博打を打つ。
センターバックの山口に「前線残留」の指示を出したのだ。
一九五センチの巨躯が、まるで暴走する重戦車のように相手エリアへ雪崩れ込む。アンギーラの選手たちが、その圧倒的な「高さ」という暴力に恐怖し、意識を吸い寄せられた一瞬。
その影から飛び出したのは、誰よりも走り、誰よりも泥にまみれていた村雨だった。
「……入ったぁぁぁ!」
三対二。
もはや、貴賓席の役員たちは座っていられなかった。先ほどまで売却の利益計算をしていた彼らが、ネクタイを緩め、身を乗り出し、喉を鳴らしてピッチを見つめていた。
敦賀は、その光景を静かに、しかし熱い眼差しで凝視していた。
「役員たちを虜にしてみろ」
かつて自分が放ったその言葉が、今、目の前で、理屈を超えた選手たちの生命力によって、呪いから祝福へと変わろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時計の針は残酷に、しかし熱狂的に後半四十四分を刻んでいた。
須賀川は、震える手で最後の交代枠を使い、山中慶次郎を戦場へ送り出す。
山中は投入直後、中盤の底で、鬼神のような形相でボールを呼び込む尹との間で、吸い付くようなショートパスを三度繰り返した。
それは、日向がかつて理想とした「完璧なリズム」の具現化だった。
王者の足が止まった。その一瞬の隙を逃さず、山中は中央を強行突破。尹とのワンツーから、ゴール正面、わずか二十メートルの位置でフリーになった。
迷いはなかった。振り抜かれた右足から放たれた弾丸は、夕闇を切り裂き、王者のゴールネットを千切れんばかりに揺らした。
三対三。同点。
スタジアムの音圧は、もはや鼓膜を破壊せんばかりの絶叫へと変わった。だが、ガビアータの選手たちは、誰も笑っていなかった。
尹が、中野が、山口が、まるで獲物を追う獣のような目でゴールの中からボールを拾い上げ、センターサークルへと全力で走る。
アディショナルタイムは五分。
須賀川は、かつて日向が「究極の自立」として定義した布陣、アタッカー五枚を横一列に並べる「五トップ(3-2-5)」へのシフトを命じた。
守りに入った王者は、もはやその圧力に、呼吸することさえ忘れていた。
九十五分。
ガビアータは、相手ゴール右隅で、正真正銘、最後の一本となるコーナーキックを得た。
その時、自陣のゴールマウスを捨て、一陣の風となってピッチを縦断してくる巨大な影があった。正GKの粟尾である。
「……俺が行かなきゃ、誰が行くんだよ!」
守護神までが相手エリアに陣取り、山口、中野、粟尾という一九〇センチを超える「三枚の動く壁」がアンギーラの視界を完全に遮断した。
その狂気の光景を、成田からアリーナへと急ぐタクシーの中で、日向はタブレット越しに見つめていた。
「……あはは、最高だよ。君たち。データ以上のバカばっかりだ」
日向は、以前と変わらぬ軽快な、しかし少しだけ鼻声を混ぜた調子で呟いた。
「さあ、チェックメイトだ。山際さん、マッチー、そして幕張のバカ騒ぎが大好きなカモメたち。……歴史に、名を刻んでおいで」
キッカーを務める村雨の足から放たれたボールは、冷たい潮風を切り裂き、銀色の放物線を描いて、王者のゴール前へと吸い込まれていった。




