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カモメが飛ぶ日  作者: Tohna
苦闘の始まり
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第52話 カモメが飛ぶ日

 二〇二X.年、一月一日。


 二度目の東京オリンピックを機に新築された国立競技場の巨大な電光掲示板に、「ガビアータ幕張 2 - 1 アンギーラ浜松」の数字が誇らしげに刻まれていた。


 一ヶ月前、わずか数ミリの判定に泣き、リーグ優勝を逃したあの日。


 ガビアータの物語はそこで終わったかに見えた。


 しかし、須賀川監督は、日向がドイツから送り続けていた「アンギーラの予測モデル」をあえて無視する。


「データは相手も読んでいる。ならば、データの外側へ行くぞ」


 須賀川は、エースの奈良崎をあえて守備に奔走させ、空いたスペースに無名の若手と、泥臭さの象徴となった村雨を飛び込ませるという「非論理的」な奇襲を完遂した。


 タイムアップの笛が鳴った瞬間、キャプテンの鈴木は、そして守護神の粟尾は、国立の芝に泣き崩れた。


 それは、親会社の呪縛、解散の危機、そして日向という「裏切り者」への怒り——そのすべてが浄化された、魂の咆哮だった。


 表彰台の真ん中で、エンペラー杯を高く掲げた山際。


 その傍らには、ドイツから「独立資金」という名の劇薬を携えて帰還した日向が、相変わらずの薄笑いを浮かべて立っていた。


 その一ヶ月後、幕張の「独立」は正式に承認された。


 日向が突きつけたMBOマネジメント・バイアウトのスキームは、川島製鉄の役員会を沈黙させた。内定していた香港ファンドの提示額を大幅に上回る買取資金。

 

 日向はドイツのBVミュンヘンとの提携によるライセンス料と、地元有志、さらにはツイキャスを通じて募った数万人からの小口出資を束ね、一気にキャッシュで叩きつけたのだ。


「これ以上の強行売却は、株主に対する背信。役員の皆さんは、監獄でリフティングの練習をすることになりますよ」


 日向の冷徹な宣告に、最高実力者の敦賀は、譲渡書類に力任せに判を押した。


 山際は、二十五年勤めた川島製鉄を辞した。

 意外にも家族は反対しなかったという。


 退職金はすべて、新生ガビアータの資本金に充てた。


「これからは、お給料も自分たちで稼がなきゃいけませんね」


 山際の言葉に、隣にいた町島が笑って応えた。


「大丈夫ですよ。今の僕たちには、日本一の熱量がありますから」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 だが、独立の代償は想像以上に生々しいものだった。


 プライドを木っ端微塵にされた川島製鉄は、最後の悪あがきとして、本拠地「川島製鉄アリーナ」の使用料をこれまでの三倍に吊り上げた。事実上の追放である。

 

「いいじゃないですか。あんな重苦しい鉄の箱、僕らに似合いませんよ。維持費だけで死にますから」


 日向はあっさりと、天台の千葉県総合運動場陸上競技場への移転を決めた。


 それから一年後。幕張の二つのスタジアムは、残酷なほど対照的な光景を描き出すことになる。


 カワアリは、ガビアータという「魂」を失ったことで、急速に冷え切った。


 川島製鉄は自社ブランドを誇示するために無理な運営を続けたが、市民の反発は凄まじく、観客動員はかつての十分の一以下に激減。


 市民スポーツへの開放や、企業チームの試合を開催してもスタンドは閑古鳥が鳴き、高額な維持管理費が川島製鉄の経営をさらに圧迫した。


 かつてのプロ野球で起きた「北海道ドーム」を彷彿とさせる、官僚的な経営の失敗例に似ている。


 看板は色褪せ、芝は荒れ、管理費用を垂れ流すだけの負債と化した。

 

 それは、フットボールを「単なる資産」として扱った者たちへの、冷徹な回答だった。


 一方、天台。


 そこには、かつてが名将マクドゥーウェル「生ぬるい」と切り捨てた場所とは思えないほどの熱気があった。


 陸上トラックがあるため、ピッチまでの距離は確かに遠い。


 座席も古く、コンクリートは剥き出しだ。だが、日向がドイツから引き出してきたファンドの資金により、最新鋭のLED照明と、サポーターの顔が鮮明に映る大型ビジョンが導入された。


 屋根の設置もリーグの要求基準だが、ファンドの内部ではほぼ了解が取れているという。この投資によって客数が増えるのは分かっているからだ。

 

「トラックがあるなら、そこでイベントをすればいい。ピッチが遠いなら、声で埋めればいい」

 

 日向の言葉通り、スタジアム周辺には地元商店街のキッチンカーが連なり、島会頭の工務店が手作りした木製のテラスが設置された。


 カワアリのような機能美はないが、そこには「血の通った温かさ」があった。身の丈に合った、しかし誇り高い私たちのスタジアムになった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 移転後、リーグ初戦。


 対戦相手は、奇しくも坂上を擁する横浜クルセイダーズだった。


 クルセーダーズは、園田を排除した後、監督に再度保阪を、そしてGMには館を招聘していた。


 戦力は急激に回復。今年のダークホースと目されている。


 一旦保阪から監督を引き継いだ高橋は、その戦略で善戦した事でオッソ札幌のヘッドコーチとなった。高橋も園田に翻弄された人生を自分の力で変えて見せたのだ。


「お久しぶりです、山際社長」


 横浜のユニフォームを着た坂上が、試合前に挨拶に来た。


「……坂上君。横浜での活躍、見ているよ。あの日向君の無茶なトレード、恨んでいるだろう?」


 坂上は少しだけ困ったように笑い、首を振った。


「いえ。横浜で『個』の強さを知ることで、僕はようやく独り立ちできました。そして今日、この天台の空気を見て分かりました。あの時、日向さんが僕を放出しなければ、奈良崎は覚醒しなかったし……僕も、感謝しています」


 ピッチ脇では、町島がマイクを握り、ツイキャスを通じて全世界に配信を続けていた。


「皆さん、聞こえますか! これが天台の、僕たちの新しい声です!」


 視聴者からのコメント欄には、かつての罵詈雑言は消え、「マッチー、応援してるぞ!」「天台に行くのが楽しみだ」という言葉が溢れていた。


 日向は、社長室でもGM室でもなく、バックスタンドの隅にある技術ブースにいた。


 相変わらずのブランド物のスーツを少し着崩し、タブレットを片手に持っている。


「日向さん。今年はGMとして、どんな指示を出すんですか?」


 歩み寄った町島に、日向はひらひらと手を振った。


「GM? 辞めたよ、そんな不自由な肩書き。僕はただの『戦略顧問』。失敗しても僕のせいじゃない、山際社長の責任だ」

 

 人を食ったような言い草。だが、その瞳は優しくピッチを見つめていた。


「でもさ、マッチー。見てよ、あのゴール裏を。データじゃ予測できない、最高のバカばっかりだと思わないかい?」


 天台のゴール裏には、木下祐誠率いるカモメボーイズたちが陣取っていた。


 彼らが掲げる横断幕には、こう記されていた。


『NO CAPITAL, JUST PASSION.(資本はいらない、情熱だけを)』

 

 日向が仕掛けたMBOには、地元住民による小口出資の枠も含まれていた。このスタジアムに座る誰もが、ガビアータの「オーナー」だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 キックオフ。


 ピッチ中央で、奈良崎蒼汰が横浜の屈強なディフェンダー二人を軽やかにかわし、尹龍玄へと鋭いラストパスを送る。


 その瞬間、スタジアムに地鳴りのような「ガビアータ!」のコールが響き渡った。

 山際は、VIP席ではなく、一般席の最前列で島会頭と肩を並べて試合を見ていた。


「山際さん、あんた会社辞めてから、いい顔になったな」


「……そうですか? 胃に穴が開きそうな毎日ですが、鉄筋コンクリートの会議室よりは、ずっと空気が美味しいですよ」

 

 ふと、山際が空を見上げた。


 夕闇の迫る天台のスタジアムの上空には、幕張の海からはぐれて飛んできたのか、一羽のカモメが、強い風に乗って優雅に円を描いていた。


 かつて親会社の重厚長大な煙突から出る煙に巻かれ、翼を汚していたカモメ。

 

 今は違う。

 

 その羽は、自らの力で空を掴み、どこまでも白く、自由だった。


 日向が孤独な「裏切り者」を演じてまで守り抜いたのは、勝利という名の数字ではない。カモメたちが、自分の意志で空を選ぶ権利だった。


「ミッションコンプリートだよ、山際さん」


 いつの間にか隣にいた日向が、タブレットを閉じて呟いた。


「これからは、データさえも予測できない未来を、自分たちで描いていくんだ。面白くなりそうだね」


 山際は深く頷いた。


 ピッチでは、中野朝道の咆哮と共に、追加点が決まった。


 歓喜に揺れるスタジアム。照明に照らされたサポーターたちの笑顔。

 

 ガビアータ幕張。


 カモメたちの本当の飛翔は、この日、この古びた、しかし希望に満ちたスタジアムから始まったのだ。


 空を舞うカモメが、一度だけ高く鳴いた。


 その声は、かつてのどの絶叫よりも、力強く響いていた。

(完)

長い間お付き合いいただきありがとうございました。

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