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カモメが飛ぶ日  作者: Tohna
苦闘の始まり
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第44話 離反

 八月の湿った夜風が、海浜幕張のオフィス街を吹き抜けていた。


 横浜クルセイダーズを下し、暫定三位にまで浮上したガビアータ幕張の周囲は、お祭り騒ぎの余韻に包まれている。


 スポーツ紙は「幕張の奇跡」と書き立て、公式ツイキャスの同時視聴者数は過去最高を更新し続けていた。


 しかし、その熱狂の断崖絶壁で、日向は一人、荷物をまとめていた。


 社長室。山際は、日向から手渡された一通の英文書面を食い入るように見つめていた。


「……これは、本当なのか。日向君」


「ええ。ドイツ・ブンデスリーガ一部、BVミュンヘンの戦略提携部門からの正式なオファーです」


 日向の声には、勝利の昂揚感など微塵もなかった。


「彼らは僕のデータ解析メソッド、および『LEMON』のアルゴリズムを高く評価している。提示された年俸は、今の僕の十倍以上。そして……彼らは僕に、即時の移籍を求めています」


「LEMON事業は売却したのでは?」


「ええ、しかし僕の頭の中身までは売ってません」


 山際は中肉中背の体を椅子に沈め、深く溜息をついた。


「このタイミングで君がいなくなるとなれば、チームはどうなる。選手たちは、須賀川君は……。ようやく心を開いてくれたサポーターたちはどう思うか、分かっているのか」


「分かっています。『裏切り者』。それ以外に、僕を形容する言葉はないでしょうね」


 日向は窓の外、ぼんやりと光る海浜幕張の夜景を眺めた。


「山際さん、僕はプロです。より高い評価、より大きな資本、より高いステージへ行くのがビジネスの鉄則だ。……明日、僕はチームを去ります。反論も釈明もしません」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌朝。ガビアータのクラブハウス。


「嘘だろ……。日向さんが辞めるって、どういうことだよ!」


 中野朝道が、ロッカールームの机を拳で叩いた。


「海外のクラブからオファーがあったからって、シーズン途中で放り出すなんて。俺たちのこと、単なる踏み台だと思ってたのかよ!最初『胡散臭い』野郎だと思ってたけどよ、その通りだったじゃねえか!」


 選手たちの間には、憤りを通り越した虚脱感が広がっていた。


 しかし、眞崎だけは、

「あの人もプロだ、って事だよ。残念は残念だけど、僕らもプロだ。彼なしでもやっていける事を証明しよう」

 と冷静に言う。


 監督の須賀川も微妙な顔つきで眞崎を肯首していた。


 しかし、ようやく「自分たちの進むべき道」を示してくれた羅針盤が、突然失われたのだ。


 山際が暫定でGMを兼任することが分かっていたが、正直心許ない。


 リーグ中の移籍期間はまだ10日残しているが、足りないピースがあり、山際がどう埋めてくれるのか想像ができない。


 須賀川は、腕を組んだまま壁に背を預け、何も語らない。


 選手にとって、その沈黙が、重くのしかかっていた。


 午後。


 日向は、最低限の荷物だけをまとめたバッグを手に、誰とも目を合わせることなくオフィスを出ようとしていた。そこへ、血相を変えた町島が立ちはだかった。


「日向さん! 待ってください! せめて配信で、自分の口で説明してください! このままじゃ、サポーターとの信頼が全部壊れます!」


 町島の必死の訴えに、日向は足を止め、一瞬だけ彼を見た。その瞳は、出会った頃の「何を見ているか分からない」冷たい輝きに戻っていた。


「マッチー、君には失望したよ。感情に流されて広報の仕事を放棄するのかい? 僕はプロだ。より良い条件の契約があれば、そちらを選ぶ。それのどこに説明が必要なんだ?」


「……本気で、言ってるんですか。あんなに中野さんや尹さんと向き合ってきたのに、全部嘘だったんですか」


「嘘じゃないよ。ただ、僕にとってガビアータでの仕事は、BVミュンヘンへ行くための『最高の実績』になった。感謝しているよ。……悪いね」


 日向は、町島の肩を無造作に押し退け、エレベーターに乗り込んだ。


 閉まる扉の隙間から見えた町島の、裏切られた絶望に歪む顔。


 日向は、その光景を脳裏に焼き付けながら、感情を殺して前を見つめた。


 成田空港。


 日向は搭乗ゲートをくぐる直前、一度だけスマートフォンを操作し、商工会の島会頭へ一通の短いメッセージを送った。


『島さん。例の件、予定通り進めてください。あとの判断は、山際社長に任せてあります』


 島からの返信はない。ただ、既読だけがついた。


 機内。窓の外には、薄暗い雲海が広がっていた。


 日向は、機内Wi-Fiを通じてガビアータの掲示板を覗いた。そこには、案の定、彼を呪う言葉が溢れていた。


『期待して損した。結局、金かよ』


『マッチーがかわいそう。あんなに信じてたのに』


『データなんて信じるもんじゃない。人間味のない奴だ』


 日向は、そっとタブレットの電源を切った。


 彼がなぜ、このタイミングでBVミュンヘンからのオファーを「利用」したのか。


 なぜ、あれほどまでに町島を突き放したのか。その真意は、日向の胸の中にだけ秘められていた。


 その頃、幕張では、怒りに震えるカモメボーイズの木下祐誠が、仲間たちに号令をかけていた。


「日向がいなくても、俺たちがこのチームを支えるぞ! あいつに、俺たちを捨てたことを一生後悔させてやるんだ!」


 日向の「離反」という劇薬は、図らずもチームとサポーターを、かつてないほど強固な、剥き出しの「怒り」という名の絆で結びつけようとしていた。

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