アルベラン 十一
「噂には以前から耳にしておったが、所詮南東の一部族。アルベランなどと、神そのものである聖霊に対し、不敬で烏滸がましい名もいずれは消える。そう考えて放置しておったが、奴らはどうやら竜の顎、その眼前にまで足を踏み入れた」
多くの戦士達が集まる大きな会議場の奥では、巨躯の男――クレィシャラナ大族長シャーリルがあぐらを掻き、口を開く。
若き頃には翠虎をたった一人で仕留め、腰と肩にはその毛皮が巻き付けられ、彫刻の施された優美な胸甲を身に付けていた。
八十を過ぎていたが、置いてなお老人とは言えぬ容姿。
集落を荒らし回るような遊びは族長となってからしなくなっていたが、昨年にも女を一人、妾として娶っていた。
大戦士達が多くの集落にとって神であるならば、彼らに取っての神とは聖霊であり、そして大族長である。
聖霊が生まれついての神であれば、彼は人に生まれながら数多の戦士達からその座を勝ち取った、戦士の中の戦士。
クレィシャラナは人としての道を完全に踏み外していたが、己達が戦士であるという一点だけは今なお忘れず、神聖視していた。
仮に集落で殺されるような間抜けがいたとすれば、それはもはや戦士ではない。
当然、その集落はクレィシャラナに刃向かった愚か者と『相応の躾』が施されることになるが、そこで死んだ戦士には墓標さえも与えられない。
それどころか、戦士でもない者に殺され、クレィシャラナの格を落とした愚か者であると侮蔑の対象にさえなった。
仮に裸で寝床の上にあろうと、クレィシャラナの戦士は常に、クレィシャラナの戦士でなければならない。
その程度には今なお、彼らも戦士としての矜持を忘れずに持っていた。
恐らく、どれほど快楽に溺れ、欲望という贅肉を纏わり付けても、クレィシャラナがクレィシャラナ足り得る理由を忘れていないからだろう。
数多の集落、その絶対的な支配を可能にするのは獅子鷲ではない。
あくまでそれを駆るクレィシャラナの戦士が強ければこそ、と知るが故だろう。
多くの戦士達の記憶は、鍛錬から始まった。
歩けるようになって少しすれば、何を学ぶよりも先に痛みを学ぶ。
男児は五つになれば鍛錬所での集団生活を送り、鞭へ怯えるようにしての生活を。
体を休める時間と食事に関しては十分以上に与えられたが、選別と言うべき過酷な鍛錬を命じられ、ふるいに掛けられる。
病に倒れて弱ったものは、そのまま多くが死んでいく。
その過程で生き残った者だけが、歳を重ね、クレィシャラナの戦士となる。
十五になる過程で多くの子供は、歴戦の勇士達のような無数の傷痕を体に残して生き延び、半数ほどがその過程で消えた。
そして試練を乗り越えて戦士となる。
集落単位で彼らほどに追い込み、鍛え上げられた戦士達はまずいない。
十五の戦士達で競わせれば、名実共に彼らの右に出る者はいないというほどに、彼らはただ一つ、強さという価値を追求させられる。
半分は死ぬという前提で、子を作ることは戦士達の使命――それも、集落を荒らして暴れ回ることが許される理由の一つとなっていた。
幼少から苛烈な競争と鍛錬により、強さとはどれほど理不尽かを彼らは学ぶ。
たった一人の秀でた者には束になっても敵わないと身をもって知る。
そう知るが故に、戦士となった内のそんな一握りが競い合い、力で捥ぎ取る大戦士の座というものには誰もが敬意を払ったし、その内のたった一人から選ばれた大族長となればそれはもはや畏れと変わるもの。
聖霊を目にしたこともない多くの者にとっては、大族長とは神そのものであった。
とはいえ、クートスにとってはただの父。
力と欲望、自尊心に飲み込まれた多くの人間の一人。
半分が死ぬような、文字通り命懸けの鍛錬を重ねて来た若者は純粋であった。
指導に当たるような戦士にはそれを若者に望む高潔な人物も少なくない。
少しでも若き芽が集落を良い方向へと変わっていくようにと願い、クートスが指導を受けた尊敬する戦士もそういう一人であった。
自分達は聖霊との誓いを守るための門番である。
大戦士にも一人、そうした人間はいて、彼は聖域の門番に立っていた。
彼はこの場にも現れず、もう何年も見てはいない。
数人の戦士達と共に魔獣蔓延る聖域の手前に居を構え、こちらへ寄りつかず、来たとしても長居はしない。
一度だけ言葉を交わしたとき、守手長は寂しげに。
『もはやあの土地に、輝ける月が浮かぶことはないだろう。……お前がまことに祖先が仰ぎ見た輝きを見たいと望むのであれば、いずれここに来ることになる』
かつては多くの戦士を育て上げた男であったと聞いていた。
けれど、ほとんどの若き戦士は、白き布があっさりと汚れるように、欲望へと囚われ堕落する。
戦士になった祝いだと下劣な遊びに誘われて、仕方なかったという言い訳さえも次第に消えて穢れて堕ちた。
もしかすると、誘う側にも罪の意識程度はあるのかも知れない。
だからこそ、純粋な若者が堕落するのを見て、誰だってこういうものだと安心したいのだろう。
断るほどにしつこく誘い、決して靡かないと知れば、クートスのような人間は変わり者だと皆で笑った。
己に彼らを裁き、導く力があれば良かったと思う。
けれど才能とは残酷だった。
毎日必死に槍の腕を磨こうと、遊びに日夜飛び回る、ファナローのような相手にさえも及ばない。
どれほど穢れていても、彼らはただ強かった。
現実というものは、そういうものだ。
守手長と共に輝ける月を見上げる前に、大戦士の座を勝ち取り、この地で出来る限りのことをしよう。
そういう理想は、日に日に無力感で塗りつぶされる。
「アルベランを称する不遜なる者。放置すれば驕ったまま、いずれ聖霊にさえ牙を剥けるだろう。事実、竜の顎の前に多くの資材を運んでいるとも聞く。……竜の顎は聖霊が外門、これを看過することは出来ん」
シャーリルは戦士達を睥睨する。
「今後百年、二百年のために、門の外にも我等が大義、そしてそのために鍛え上げた力を見せつける必要がある。……アルベランを名乗る小娘、バザリーシェを生かしたまま、わしの前に連れて来い。……ドットリアス」
「は。指揮をお任せいただけるのであれば喜んで。……同じ月が上がらぬ内に、必ずや大族長の前に連れて参りましょう」
うむ、とシャーリルは頷いた。
戦士長ドットリアス――全ての戦士を束ねる大族長の右腕。
ちょっとした遊びだと、翠虎を一人で仕留めて帰って来る、そういう化け物。
長身でしなやかな体つきと端整な顔を持つ戦士であったが、下劣な品性が透けるように、その笑みは歪んでいる。
「とはいえ南部は広い。聖霊の威光を知らしめるには供もいるだろう。戦士の半数は連れて行っても構わん。……嘆かわしいが、痛みを知らねば人は変わらぬものだ。自分達がいかに愚かであったか、心の底から理解するまで教えてやれ」
「は。大戦士達は?」
「喜ばしいことに、聖霊に仇為す愚か者に槍を振るいたくて堪らない……皆そんな顔をしておる。三人も残せば十分だろう。良く話し合って決めよ」
その言葉にファナロー達、大戦士達が笑みを浮かべて顔を見合わせるのが分かった。
「ただし、最優先はバザリーシェだ。後で探し回らずに済むよう、速やかに捕らえて連れてこい。それさえ済ませれば、後はお前達の好きにして構わん」
どこまでも腐った話し合い。
暗澹たる気分で、クートスはそれを聞いていた。
「ふふん、またまたわたしの勝ちですわね、ベルナイク」
森の中――剣の切っ先を首に突きつけ、少女は笑う。
長い銀の髪、華奢ながら美しい曲線を描く、優美な長衣に包まれた体。
大きな紫の瞳を柔らかく、銀糸で縁取られた瞼で包むように。
すらりとした鼻も、柔らかそうな桜色の唇も、神秘を帯びて美を象る。
その白き肌はほんのりと薄紅を帯び、汗に銀糸を額や頬に張り付かせる様が、彼女を現実のものとして見せていた。
憮然とした様子で剣の切っ先を眺める男もまた、美しい。
黄金に輝く髪と、精悍でありながら流麗な顔立ち。
鍛え上げられた長身は彫刻のように無駄が削ぎ落とされ、硬質ながらも獣のようにしなやかであった。
無骨で簡素なズボンを裾で絞り、手甲を身に付ける以外はその肉体を晒し、その体は少女以上に汗に濡れる。
「いや、お見事……まさか、バザリーシェ様にここまで拮抗するとは」
「負けに拮抗も何もあるものか」
髭を整えた精悍な大男、ミツクロニアは笑顔で拍手を送り、憮然と男――ベルナイクは彼を睨んだ。
ミツクロニアの側で先ほどの戦いを見ていたもう一人の男、ゴーデウスは呆れた様子でベルナイクに告げる。
「……バザリーシェ様を相手にここまで戦える人間はあなたぐらいですよ、ベルナイク殿。この天下にあなたのような戦士は二人といない」
バザリーシェの剣の腕を見れば、誰もが神の子と疑わない。
どんな剣も止まっているかのように紙一重で見切り、歩くような滑らかさでどんな剣閃も緩やかに潜る。
そんな彼女が汗を掻くほどの相手というのは、ベルナイクだけであった。
躱さねば必殺となる偽攻を瞬きの間に五つ六つ、空気さえをも凍り付かせるような剣閃は見ているだけでもぞっとする。
バザリーシェは全ての攻撃を容易に見切ったし、見せるだけの偽攻など気にもしない。
そんな彼女が回避を選択し、剣を繰り出さざるを得ない偽攻を最小限の動きで無数に繰り出し、追いすがるのがベルナイクの剣。
圧倒的に勝るリーチを活かし、決してあちらの間合いに入らせず、一方的にさえ見えた。
無論、バザリーシェはその剣を全て殺して躱したが、剣を差し込む隙間もなく、ほんの僅かな好機で仕留めに行くしかなかった。
「髪だの服だの、こいつがどうでもいいもの気にせず仕留めに来ればすぐに終わってる」
「どーでも良くないですわ。お気に入りの服ですもの。それに、長いのが好きだと言ったのはあなたの方じゃないですの」
「お前が誰かを分かりやすく伝える上で都合が良いと言ったまでだ。勝手に解釈するな」
「そーですの。じゃあ短くしますわよ? わたしだって切りたくて切りたくて鬱陶しいのを我慢して我慢して伸ばしてあげてますの!」
ぷりぷりと子供のように顔を真っ赤にして怒るバザリーシェを、まぁまぁとミツクロニアは宥める。
「長く髪を伸ばすことが美しいとされているのは事実……こうは仰ってますが、ベルナイク殿も長い方が良いと考えておられるのも確かです」
「でもどーでもいいって言いましたわ! わたしに毎日毎日手入れさせておきながら、どーでもいいって!」
「知るか。それくらい我慢しろ」
「べ、ベルナイク殿、どうかその辺りに……」
ゴーデウスも慌てて宥める。
先ほどの神懸かり的な決闘を見た後で、始まるのはいつも通り、何とも幼稚な喧嘩であった。
「折角面倒臭い剣の相手までしてあげて、わたしが色々気遣ってあげてるというのに、一体何が不満ですの? わたし、言っておきますけれどあなたのこと、すーっごく特別扱いしてあげてますわよ」
「本番前に軽く体を動かしたいと言い出したのはお前だろう」
「あなたが体を動かしたそうだったから気遣って付き合ってあげましたの! わたしが好き好んで剣なんて振ると思ってますの? そんな時間があったらお茶でも淹れてソファで寝てますわよ、剣なんてとーっくの昔に覚えましたもの! あなたと違って!」
いつも通りの大激怒である。
何とかしろ、と迷惑そうにベルナイクはゴーデウスを見るが、首を振る。
まぁまぁ、とミツクロニアは困った様子でバザリーシェを宥める。
「どうあれ、明日は我々にとって非常に重要な一日となりましょう。……その前にこのようなことで喧嘩というのはいけません」
「まさにその通りだ。アルベランが阿呆では沽券に関わる。適当に宥めておけ」
「阿呆? 言うに事欠いて、わたしに阿呆って言いましたの?」
「言うに事欠くも何も、お前を表現する言葉はそれに準ずる言葉くらいだ」
「べ、ベルナイク殿、どうかその辺りに……」
何故この男がこれほど火に油を注げるのか、ゴーデウスには不思議で仕方がなかった。
バザリーシェは随分とベルナイクを気に入っている。
何かと側に置き、特別扱いも事実――少々気性は幼いが、誰もが目を奪われるほどに美しく、その上に天才と語ることさえ不足するような才があった。
彼女とまともに剣を交わせるのはベルナイクくらいのもの――そしてそんな彼女を心底面倒臭そうに、邪険に出来るのもまたベルナイクくらいのものである。
ミツクロニアは困った様子で嘆息し、少し考え込み、バザリーシェへと耳打ちする。
なるほど、と言わんばかりにバザリーシェは頷いた。
「わかりましたわ。でも、どうであれ負けは負け……三連敗ともなれば言い訳は出来ませんわ。勝った者は負けた者を自由するというのが戦士の掟というもの……わたしもこれを軽んずるわけには行かないと思いますの」
「いい加減殺すぞ、ミツクロニア」
「ご容赦を……明日は大事な一戦ですので」
ベルナイクに睨まれたミツクロニアは、苦笑しながら答える。
バザリーシェは剣を放り捨てると、腰に両手を――ふふん、と笑う。
「髪の手入れがどれだけ面倒臭いかあなたも理解するべきですわね、ベルナイク。後でたっぷり、わたしの気が済むまで、わたしの髪の手入れをさせてあげることに決めましたわ。少しはわたしの苦労を味わってくださいまし」
「勝手に言ってろ」
言いながらベルナイクは踵を返し、バザリーシェは追いかける。
「ぜーったいさせますわ! あなたがやらないなら髪を濡らしたまま寝て、明日は寝癖でぼさぼさのまま出陣しますもの!」
「やめろ」
「リーナ達にも徹底させますわ。ベルナイクが髪を手入れしない限り、今後一切わたしの髪を手入れするなって。寝癖で髪がぼさぼさのアルベランに敵の前で傅くか、素直に櫛で手入れするか、よく考えることですわね――」
などと楽しそうに、怒っているのかいないのか。
毎度の如く愛剣を放り捨てられたミツクロニアは、もはや諦めた様子で剣を拾い、布で拭いながら鞘へと納める。
「……何というか、いつもいつも」
「なに、可愛いものです。ベルナイク殿が来てからというもの、バザリーシェ様は楽しくて仕方がないご様子……ご自分と対等の方などおられぬ方でしたから」
ミツクロニアは苦笑した。
「……早く、この戦も終わらせたいものです」
そうして歩き出すミツクロニアに続き、ゴーデウスも歩き出す。
「神の子の国を作りたいと、そう聞いてはいますが……あなたの望みは本当にそれだけなんですか?」
「難しいところですな……特に、望みとなると。この世の全ての行いは過程で、手段とも言えます。そして目的は、それを通した先にある、心の中にこそあるものだ」
眉を顰めるゴーデウスに、ミツクロニアは苦笑する。
「……私は正しく、戦士となりたいのです」
「あなたが戦士でなけりゃ、ほとんどの連中は戦士じゃないでしょう。あなたほどの戦士は何人もいるもんじゃない」
ミツクロニアは首を振った。
「私は今なお、戦士の振りをしているだけの男です。……私は戦士などとは決して呼べないような、臆病者なのですよ」
自重するような言葉にゴーデウスは困惑し、しかしそれ以上は深く尋ねず肩を叩いた。
「では続きはいずれ、館の宴で聞くとしましょう。俺が先か、あなたが先かは分かりませんが……そこで必ず、お互い顔を合わせるでしょうから」
間違いない、とゴーデウスは笑い、ミツクロニアも同じく笑う。
「その時は是非、美酒の肴に聞かせましょう」
「ええ。……それまでの楽しみにしておきます」
言いながら腕を突き出すと、ミツクロニアも同様に。
手甲と手甲を重ねるように、互いの手甲が打ち鳴らされた。





