アルベラン 十
クレィシェラナは聖霊眠るアルビャーゲルの麓に根付いた者達。
古くは聖霊の眠りを妨げる不届き者の侵入を防ぐ門番であった。
聖霊とは絶対者であり、実体を持った神である。
その怒りの咆吼は高き山をすら容易に貫き、地形さえをも書き換えた。
羽ばたき一つで嵐が舞い起こり、木々が根元から引き抜かれ、ただ降り立つだけで大地を鳴らす。
彼らが門番となったのは果たしていつであったのか。
正確な歴史は誰も知らなかった。
ただ、伝承としては伝わっている。
『潰しても潰しても、いくらでも湧いてくるお前達の相手も面倒だ。我の許しを得たいというなら、我の思索を妨げるな。それが守られる限り、お前達の存在を許容してやろう』
皆が聖霊に怯えていた頃、勇気ある者達はその前に平伏し、許しを乞うた。
多くの勇者は呆気なく命を落とした。
だが、後にクレィシャラナが初代族長となった勇者、アルマンティースがその許しを乞うた際に掛けられた言葉が全ての始まり。
以来、彼らはその門番としての役割を担うこととなった。
聖霊を討ち滅ぼせると、度胸試しか何かのつもりで聖霊に挑もうとする愚か者はその時代多くあり、クレィシャラナは門番として、その全てを始末した。
そして愚か者を始末するため、彼らは強くなければならないと、必死に己達を鍛え上げ、門番としての務めに生涯を捧げる。
全ては多くの無辜の人々を聖霊の怒りから守るためであった。
しかし、誰もがそうした愚か者ではない。
初めて聖霊への拝謁を許したのは、周囲一帯で敬意を向けられていた老賢者ゼクリット。
彼は門番を担うクレィシャラナに深い感謝を伝え、また、我等を許された聖霊にも心からの感謝をお伝えしたいと頭を下げる。
彼が多くの部族を渡り歩き、決して聖霊の怒りを買わぬようにと長年説いて回っていたことも知っており、そしてその話通りの人格者であった。
彼ならば問題あるまいと拝謁を許し、彼と共に深い感謝を聖霊に伝える。
『要求は伝え、それは瞬き間とはいえ守られている。それ以上は求めもせぬし、お前達への関心も、興味もさしてない。その言葉を守る限り、お前達が我の前で大地を這う程度のことは目を瞑ってやる』
格の違いを示すような赤紫の一瞥。
それと共に与えられた言葉に、皆が心から安堵した。
クレィシャラナの由来は、刃のような月を示す言葉。
丁度、アルマンティースが聖霊の許しを得て麓に下りた晩に、アルビャーゲルの真上に浮かんだ月から取った名前であったのだという。
――我等はあの空に浮かぶ月が如く、曇りなき刃となろう。
聖霊への誓いをあの月を見る度に思い出すのだと。
翠虎から若き戦士を庇い、随分と早くに亡くなったアルマンティース。
彼がここにいたならばどれほど喜んだだろうと口々に言いながら、その晩空へと浮かんだ刃の月に、皆は心から彼を想って祈りを捧げた。
彼の尊き誓いと聖霊への畏敬を決して忘れぬようにと、くの字に折れた剣を月になぞらえ愛用するようになり、それはいつしか文化として根付いた。
戦士となった際に授けられる剣と共に、彼らは使命を授けられる。
生涯を聖霊が住まう、聖域の門番として捧げること。
天変地異を引き起こした竜の時代を伝え聞く彼らに取って、それ以上に誇らしい役割など存在しなかった。
彼らはその役割のみを全てとし、人々に見返りを求めなかった。
ただ、周囲の者達はそうではない。
始まりは善意として、周囲にある集落からは彼らへ実りがもたらされた。
その頃には重大な使命を担うクレィシャラナへの敬意と感謝を伝え、少しでもその務めに協力したいと心から口にする者達。
クレィシャラナの者達もそうした彼らに対し、感謝と共に贈り物を受け取った。
魔獣の蔓延るアルビャーゲルの麓に住むことはそれだけで大変なことであり、彼らはその上で門番の役目を担う彼らに心から敬意を示していたし、クレィシャラナの者達も出来る限りの協力をと語る彼らを嬉しく思っていた。
聖霊の周辺を安全に見回る手段として、アルビャーゲル山中に棲み着く獅子鷲を手懐け、飼い慣らす手段を得てからは、自分達の役目と聖霊との誓いを周知するため様々な集落と交流を。
彼らは聖霊の恐ろしさを知る多くの集落から歓待を受け、クレィシャラナの集落には多くの実りが集まった。
貴金属の類は決して受け取らず、無理してまで実りを出さなくて良いと伝える彼らであったが、なればこそと多くの実りと尊敬を集めた。
せめてもの代わりにとクレィシャラナの者達は進んで魔獣退治のような危険な仕事も引き受け、始まりは全て善意であった。
ただ、長い年月と共にそれは慣習となった。
いつしか各地の集落と上下の関係が結ばれ、貢ぎ物はあって当然のものとなるが、それが致命的な亀裂となったのは随分と冷え込んだある年であった。
多くの地域で実りが育たず、餓死者の出る状況。
聖霊が偉大なる魔力の恩恵か、アルビャーゲルの山中では多少の実りもあったが、人口が増えたこともあり、飢えを凌げる程度。
獅子鷲の餌も確保せねばならない。
クレィシャラナは例年通り、彼らに貢ぎ物を求めた。
聖域の門番として、獅子鷲や戦士が飢え死ぬことがあってはならない。
その隙にと愚か者が足を踏み入れ、聖霊の怒りを買うことがあれば、飢えに苦しむ程度で済む話ではないのだと。
彼らとしては正当な要求のつもりであった。
ただ、そのせいで多くの死人を出した集落の感謝は、憎悪に変わった。
数年後、多くの集落が団結し、クレィシャラナへと数千の戦士を差し向けた。
聖霊の威光を傘に実りを奪うクレィシャラナを討つのだと。
各集落に多くの死者を出したという事実に心を痛めた者達は少なくなく、二度とないように是正を族長達に求め、関係修復のために奔走する者達もいたが、時既に遅く。
そして戦いもあっという間のものであった。
聖域の門番という務めのため、多くの実りによって武にのみ生涯を捧げることが許され、獅子鷲を駆るクレィシャラナの戦士達。
そして片や、クレィシャラナに奪われ続けた者達。
クレィシャラナは倍の人数に対して、死傷者十数名。
両者の力の差は絶対的なものであった。
当時の族長達は、彼らが聖霊への誓いを忘れた結果であると激怒し、各集落を回らせ族長や長老達を見せしめに引き裂かせた。
彼らが感謝と誓いを忘れるならば、二度とこのような事を起こさぬよう、恐怖によって縛り付けなければならない。
聖霊に代わって、我等が彼らを管理するのだと。
慣習はそうして、支配となった。
クレィシャラナの戦士達は偉大なる聖霊に門番を任された存在である。
クレィシャラナ以外の全ての部族、長であろうと最大限の敬意を示さねばならぬとし、仮に相手がクレィシャラナで下位に位置する戦士であっても、族長は地に額を押し付け、最大限の礼儀を払うという決まりを作らせた。
刃向かった集落は無数の獅子鷲騎兵に襲われ、見せしめにと焼き払われた。
権力は多くの戦士を少しずつ狂わせた。
その頃には権力に溺れて無法を働く若い戦士に怒り、それを罰する心ある戦士も多くいたが、年月が過ぎるほどにそれも当然の事となる。
表向きは贅沢を慎み、清貧を尊べと教えを受け、クレィシャラナの集落では禁欲的であったが、一歩外に出ればそうではない。
望むままに権力を振るえる外回りは何よりの娯楽であった。
そして獅子鷲に乗ることが叶えば、多くの集落を巡って権力を振るうことが出来るという噂を知って、それを目的に空騎兵を望む者も増えていく。
勇気と善意から始まった崇高な部族が掲げた月は濁り、いつしか穢れきった。
聖霊に対面する彼らであればこそ、聖霊に対する畏れだけは失わない。
ただ、聖霊が言葉通り、人の世に興味がないと長年の付き合いで理解してからは、その役割も建て前に変わった。
体を鍛えるのは、弱者を嬲るため。
剣は先祖の誓いを思い出すためではなく、見せつけ、権威を示すもの。
後ろ腰に提げた曲剣を一目見れば、誰もが平伏し媚びへつらい、愛する妻や娘でさえも差し出した。
戦士への無礼は集落の滅びと誰もが知る。
こちらを見る目が気に食わないという理由で族長に暴力を振るい、場合によって殺してしまおうと、獅子鷲に乗れるような戦士であれば精々が小言であった。
石を投げた子供の一人や二人を殺しても、笑い話。
生意気だったという理由で集落の人間を殺すことさえ正当な理由。
二度と刃向かわぬように恐怖で躾けるというのは彼らの義務でさえあった。
――ピールスという森の中の小集落に降り立ったのは、一騎の獅子鷲騎兵。
その姿を見た瞬間、外に出ていた者達は老若男女問わず、手に持っていたものさえ放り出して平伏し、額に頭を擦りつけた。
精悍な顔の青年――クートスはその姿に、酷い有り様だと目を閉じる。
「そこの老人、大戦士ファナローはどこにいらっしゃる?」
「っ、は……! 今は族長の家に……いらっしゃるかと」
「分かった」
そのまま再び軽く獅子鷲を飛ばすと、族長の家へ。
舞い降りたクートスの姿に再び誰もが平伏し、待っておけ、と獅子鷲の手綱を柵へ括り付ける。
躾は良くしてあったし、愛騎のレヴは温厚であったが、周囲の連中を怯えさせないためであった。
「仕事に戻れ」
平伏する連中に一声掛けると、慌てて飛び出してきたのは族長だった。
髭を生やした勇壮な大男であったが、クートスを見るなりすぐさまに膝を突く。
「良い。ドルス族長、大戦士ファナローを呼びに来た、案内を」
「……は」
その言葉に見えるのは安堵。
何度か顔を合わせていた。
クートスが『マシな方だ』という程度には理解してくれている。
すぐに立ち上がると家の中へと案内し、寝室へ。
――夫婦の寝室であった。
察して、下がって良い、とドルスに伝え、強めに扉をノックする。
「クートスです、ファナロー殿! 大族長から招集です!」
『あぁ……? 少し待ってろ』
「急ぎ戻るようにと」
舌打ちが中から聞こえ、どけ、という声。
女――恐らくはドルスの妻の悲鳴があった。
それから全裸で中から顔を現わすのは顎髭を生やした長身茶髪の男。
「んだよ、楽しんでるってのに」
「すみません。ですが、今後に関わる重要な話し合いです。……噂に聞いているとおり、竜の顎の南部に関する」
「なるほど。……そいつはサボるわけにはいかねぇな。身支度するから、ロッペラの準備をして少し待ってろ」
「急ぎということをお忘れなく」
「はいはい、畏まりましたクートス様」
笑いながら言って扉を閉め、クートスは嘆息しながら外へ。
裏手に繋ぎ止められていたファナローの愛騎を連れてくるとレヴの側へ。
飼い主と違って二頭は兄弟ということもあって随分と仲が良く、互いに額を擦り付ける。
身支度という言葉からは随分長い時間を待って、ファナローが満足そうな顔で出てきたのはそれからであった。
付き従うように族長が見送りに現れ平伏する。
「ドルス、嫁は俺のお気に入りだと他の連中には伝えとけ」
「……は」
「それから娘も、その内に俺がもらう。手を出させるな」
族長の手が、屈辱か怒りか悲しみか、僅かに震えていた。
いたたまれない気持ちになり、ファナローへ声を掛けると空へ舞い上がる。
「おい! 置いてくんじゃねぇよ!」
ファナローもすぐに飛び立ち、後ろからクートスを追いかけた。
「は、そんな風じゃ眉間の皺が取れなくなるぜ、クートス。お前もたまには遊んだらどうなんだ? 立場を分からせるのは俺達の仕事……俺が優しい方だってことは知ってるだろう」
ふざけた言葉であったが、それが事実であるというのが救えなかった。
人の妻を平気で差し出させて弄ぶ屑であったが、そんなファナローでさえまだ随分とマシな方。
そんな連中はクレィシャラナに限らずごまんといた。
ただ、クレィシャラナの問題は強すぎることであった。
他の部族であれば、横暴をしても守るべき最低限を踏み越えたりしない。
反感を買いすぎれば団結されていつか攻め滅ぼされる。
だが、クレィシャラナはそうではなかった。
ただの戦士であればまだしも、クレィシャラナの最上位の十二名。
大戦士に座る人間となれば、もはや神に等しかった。
集落を気まぐれに一人残らず殺したところで、小言で終わり――それが許されるほどに、今では広大な土地と部族を支配する。
そして、そういう人間がクレィシャラナには何人もいた。
聖域を守る門番としての役目など、もはや彼らの頭に存在しない。
ただ暴力と権力を振るうためだけに、快楽のために生きていた。
そんなクレィシャラナを憂うのは極一部の人間だけで、有望な戦士見習いもいつの間にか、欲望に濁って穢れていたりもする。
「ドルスみたいな腰抜けの屑にはもったいない嫁だ。俺も我慢してるんだぜ、これでもよ。他の連中ならドルスの首をすげ替えてるだろうよ」
「……そうですね」
あなたにはそんな風にしか見えないのだろう、と目を閉じる。
ドルスも妻も、立派な人間であった。
どれだけの恥辱を受けようとも、集落に手を出させないようにとファナローに対し礼儀を尽くした。
ファナローの言葉通り、ファナローは随分とマシな方。
大戦士であるファナローが集落を支配する限り、他の戦士達もそこでは暴れないし、多少は大人しくしてくれる。
自分達が犠牲になって集落が救われるのならと、その一心であった。
集落の者達が皆二人を敬愛しているのは、そういう彼らの心の清らかさを理解してのことであろう。
多くの集落は集落の弱者を貢ぎ物として差し出すが、集落によっては自ら進んで集落のために進み出る者がいた。
クレィシャラナの戦士とは違う。
何も言えずに見過ごすしかないクートスを含め、穢れ濁った剣を掲げる戦士達と違い、彼らや彼女らは心に剣を持っていた。
そして多分、その剣はいつかクレィシャラナを滅ぼすのだろう。
いっそ――そうであって欲しいとさえ思っていた。
聖霊の前に立ち、初めてその姿を見た時に考えた。
目の前に立つだけで、近づくだけで足の震えるような相手を前に、その許しを乞うことはどれほどの勇気が必要であったのだろう、と。
きっと、初代族長は己の死を覚悟し、受け入れた上でそうしたはずだった。
家族や友人、知人に限らず――見ず知らずの者達も含めての献身。
クートスが彼らのようにならずに済んでいるのは、そんな偉大なる祖先達への尊敬の念からであった。
そんなクレィシャラナはいつしか道を違え、輝ける月を欲望で濁らせた。
もし変わるとするならば、きっと、大きな痛みが必要なのだと思う。
「しかし、アルベランとは不遜な名だ。神そのものと言える、聖霊をお守りする俺達に喧嘩を売ってるとは思わないか?」
「不遜な名、だという言葉には同意見ですね」
とはいえ、今の自分達がクレィシャラナを名乗ることほど不遜ではあるまいとも思う。
「竜の顎の南部には流石に手を出してないからな。これを機会に足を運べると思えば中々楽しみだ。……アルベランは大層美しい女だって話を聞いたが」
「その話は私も耳にはしています」
噂程度であるが、そう呼ばれる姫君を中心に、この数年で一気に勢力を拡大しているとは聞いた。
巫女や予言者か何かなのか、どういう立場なのかは知らないものの、南部の部族では随分と知られた話であるらしい。
無類の戦上手である、という話と共に。
「だとしたら族長のもんだが……処刑するなら味見程度はしたいとこだな」
下品な言葉を聞き流すと、嘆息する。
どんな相手であろうと、結局は獅子鷲を持たない相手。
その言葉に近い結果になるのだろう。
いっそ、本当の神の子であれば良い。
クートスはそう、心の中で願った。





