第9話 後悔の顛末
「……おはよう」
「相変わらず朝はテンション低いですねえ」
凪はくつくつと笑い、悠人の隣に並んだ。いつもと変わらず白を基調としたオフィスカジュアルな服に身を包み、髪は一つにまとめている。
テンションが低いというより、驚きが勝っているのが正直なところ。
振られて以来、悠人も凪も職場でこそ仕事のことは話すが、こうして朝や帰りを共にすることはなくなっていたからだ。
だからなによりも困惑していた。
その困惑を読み取ったのか、凪は申し訳なさそうな顔をする。
「すみません、突然話しかけて。ちょっと、聞きたいことがあって」
こういう細かいところに気付けるのが凪のいいところだと思いつつ、気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。
「いや、全然。こっちこそ変な反応してごめん。それで、聞きたいことって?」
「えーと、片桐さん昨日、押上いました……?」
「あー……、そうだね、いたね」
ここで挙動不審になろうものならより変な目で見られてしまうので、悠人はなんとか平静を取り繕った。
平日、それも夕方の押上。職場の人間に見られてしまう可能性はもちろん考慮していたが、まさか凪に見られるとは思っていなかった。
「やっぱり、あれ片桐さんだったんですね! すごい綺麗な人といるから、びっくりしちゃいました!」
「あはは……」
なんて、乾いた笑いをすることしかできない。
これは一体、どんな反応をすればいいのだろうか。凪はどんな反応を求めているのだろうか。
悠人のことを振ったのであれば、悠人が今誰といようが凪には関係ないはずで、たとえ街中で見てもわざわざ本人に直接聞くなんてことはしないはず。
それを凪がしてきたことに、悠人は疑問を抱く。
「彼女さん、とかですか……?」
だからそんな言葉を不安げな顔で聞いてくる凪に対して、どんな顔をすればいいかわからなくて。
「……いや、違うよ」
それを肯定する嘘をつくほどの度胸も、悠人は持ち合わせていなかった。
「そう、なんですね」
凪は悠人を振った。これは事実だ。
だから悠人から距離を取ることは必然のはずで。悠人に彼女ができようが関係のないはずで。むしろ興味が他人に移ったことを喜ぶべきはずで。
それなのに。
——どうして、そんなほっとした顔をするんだよ……。
◆
赤塚凪。区役所は五年目で、悠人の一つ上の代だ。けれど採用区分はⅢ類、つまり高卒枠で、さらに専門学校を挟んでいるので歳は悠人の二つ下。
先輩だけど年下、そんな不思議な状況から始まった関係だった。
出会いは去年の四月。悠人が二年目を迎えようとしていた今の部署に異動してきたのが凪だった。
地味な見た目の人が多い役所の人間で、凪は派手よりだったように思う。髪は少し明るく、まつげはバッチリ上がっていてネイルも欠かさない、いわゆる女の子らしい女の子。
最初のうちは若くて明るい子だなという印象しかなかったし、特段親しくなることもなく半年以上が過ぎた。
仲良くなったきっかけは繁忙期。
今の部署は十二月から二月にかけてが繁忙期で、毎日それなりの残業を強いられる。
そんな中、たまたま帰りが被って一緒に帰ることになった日があった。二人きりでまともに会話したことがなかったので多少の気まずさはあったが、思いの外楽しく話せたことを覚えている。
それからしばらくの間一緒に帰ることが増えたが、実際その時は距離を測りかねていた。連絡先を交換したわけではないし、ご飯も一緒に行っていない。向こうに彼氏がいるのかもわからなかった。
そんな関係性に変化が訪れたのは、十二月の最終営業日。
いつものように一緒に帰っていたその日、凪の方から食事の誘いがあったのだ。
『片桐さん、ご飯食べに行きませんか?』
凪に誘わせてしまったことを反省しつつも、悠人は快諾した。
そして二人が向かったのは、凪のリクエストでカレーのチェーン店だった。
『好きなんですここのカレー。トッピングも毎回同じです』
そうニコニコと笑う凪を見て、そこで初めてかわいいなと思った。
凪と同じトッピングにして注文し、待っている間は喋り続けた。職場の話に、凪の友達の話。悠人は聞き役に回り、延々と話す凪に相槌を打ち続けた。それが楽しかった。
そしてカレーが到着し、その日も白い服だったはずだが、特段気にせず食べ始める凪。
『そんなの気にしてたら白い服なんて着れませんよ』
それは確かにそうだと思った。
食事を終え、そこで初めて連絡先を交換して解散した。昨今ハラスメントが叫ばれる中連絡先を交換するのは少し勇気が必要だったが、それも杞憂に終わる。
そこから、凪とは二人で遊ぶようになった。
初めて一緒に食事をした日から数日後には押上に出かけ、さらにその数日後には東京タワーにも出かけ、とんとん拍子と言ってもおかしくないペースだった。
平日の終業後にもご飯に行ったり、凪の地元の方へ向かったり、凪が運転する車にも乗せてもらった。
そして、兼ねてから悠人が好きだった江ノ島に二人で出かけることに。それが本当に嬉しくて、楽しみで、それをモチベーションに仕事を頑張ることが出来た。
そこで告白をしようと、そう思っていた。
けれど、その勇気を出す機会は訪れなかった。悠人が風邪を引いたのだ。
一月も終わりという頃だったが、仕事の忙しさは変わらず、その忙しさにかまけて運動や食事の管理をサボった結果免疫が落ちたらしい。
悠人の自己管理の杜撰さが招いた結果にも関わらず、凪は心配してくれた。
『私は大丈夫です! 体調治ったらまた行きましょう!』
自分の不甲斐なさを悠人は嘆きつつも、凪の優しさが心にしみ、絶対に付き合って幸せにすると意気込んだくらいだ。
けれど今思い返せば、確実にここが分水嶺だった。
告白の機会を逃した悠人は、「江ノ島で告白する」というシチュエーションに囚われてしまったのだ。
江ノ島に行けなかった後も、平日にご飯を食べたり電話をしたり、好意を伝えるチャンスはいくらでもあった。
けれど悠人は、「もっとちゃんとしたシチュエーションで告白したい」という気持ちから抜け出すことができなかったのだ。
機会を逃したことも気づかず、付き合えるものだと思っていた悠人は、凪の気持ちを考えもせず自分のことばかり考えていた。これが悠人の敗因で、後悔の禍根。どんな形であれ、気持ちを伝えるべきだったのだ。
それに気づいた時には、もう何もかもが手遅れ。
いつも来ていた朝のLINEがない。
LINEはできても、返信が素っ気ない。
一緒に帰ろうとしても、わざと時間をずらされる。
ご飯に誘っても、曖昧な理由で断られる。
悠人は焦り、なんとか電話に漕ぎ着け告白したが、結果は覆らなかった。
よせばいいのに、悠人はもっと早く告白していれば結果は変わったかと問うと、
『……はい』
そう、凪は小さな声で答えた。
これが、悠人の後悔の顛末。
今なお巣食う、痛みの話だ。




