第8話 上書き
「つ、疲れた……」
「さすがに俺も疲れましたね……。なんで座ってるだけなのにこうも疲れるんだか……」
葛飾区役所に着いたのが午後二時。そして今は午後五時。しっかり三時間は拘束されたというわけだ。
けれど転入の手続きとマイナンバーカード発行の手続きは無事終えることができた。後は受け取るだけで、真琴は人生初の本人確認書類を得ることができる。
外はしっかり夕焼けに染まり、昼間より気温が下がって少し肌寒く感じる。
「良い肉食べてなかったら耐えられなかった」
「それは俺に感謝してください」
支払いは真琴がもったのだが。
「さて真琴さん。もう一度押上に行く元気はありますか?」
横で大きく伸びをしていた真琴の身体がピタッと止まり、悠人から目を逸らした。
「…………私に二言はないよ」
「随分と間がありますね?」
以前休日は基本的に寝ていると言っていたから、今日みたいに丸一日朝から行動する休日は疲れるだろう。
悠人としては真琴にあまり無理をしてほしくなかった。
「まあでも、押上は逃げませんし。俺はいつでもいいですよ」
「……いや、今日行こう。誘ったのは私だからな」
「大丈夫ですか?」
「ああ。それに、上書きは早いほうがいいだろ?」
「……それは間違いないですね」
◆
平日の東京スカイツリーは、休日ほど混んではいなかったがそれでもやはり外国人観光客が目立った。
チケット料金は日によって変わる変動性をとっており、平日である今日は比較的安くチケットを買える。
「どうせなら一番上まで行こうか」
真琴はそう言って、画面上に表示された天望デッキのさらに上にある天望回廊まで行けるチケットを押す。
ここでも真琴は、悠人にお金を出させなかった。当然悠人も毎回出そうとはしているのだ。だが毎回真琴があまりにスマートに支払いを終えてしまうので、払う隙がない。
「いつか絶対払ってやる……」
「なんの話だ? それよりほら、早く並ぶぞ」
休日であればチケットを買ってすぐ入場、なんてことはありえないが、平日のこの時間であればスムーズに入場できる。平日に遊びに行くのも案外悪くない。
エレベーターホールのようなところに列を形成し、四台あるエレベーターに順番に押し込まれていく。
案内人も一緒に乗り込み、日本語での案内と英語での案内をこなしており、ここでは絶対にバイトはできないなと思った。
ドアが閉まり、いよいよ天望デッキへと向かう。
と、意気込んだのも束の間、二人を乗せたエレベーターはわずか五〇秒ほどで地上三五〇メートルにある天望デッキへと到着した。
「え、速すぎません……?」
「ちょっと怖いまであるな……」
時速三六キロメートルのエレベーターに戦々恐々としつつ、二人は天望デッキを歩き始めた。
ガラス一枚越しに眼下に広がる光景は、以前見たものと変わらない。高い建物はあまりなく、人々の生活の営みから生まれる光がありありと映し出されていた。
けれど、この前とは隣に立つ人間が違う。たったそれだけで、この体験が新鮮なものになっていた。
「おー、意外と綺麗だな。下町の夜景(笑)と思っていたんだが案外侮れないな」
「口に出さなくて良いんですよそういうことは」
身勝手な話だが、自分より倫理観が終わっている人間といると少し安心する。きっと、自分が似たことを言えば彼女は笑ってくれるから。
「あ、東京タワーも見えるな」
「…………見えますね」
「え、まさか東京タワーも一緒に行ったのかい?」
今の間でわかるとは、真琴も段々と悠人のことを理解してきたらしい。
「行きましたね……」
「君地雷多すぎじゃないか?」
悠人にしても当然好きでばらまいているわけではない。ただ例の子と仲良くしていた期間に行ったところがあまりに多く、必然的に増えているだけだ。
「ちなみに今はどんな気分だ?」
「……いろんなこと思い出して死にたいっすね」
天望デッキを歩きながら、悠人は職場の子のことを思い出す。
職場ではある程度話していたが、いざ二人きりで話すことは初めてで結構緊張していた。
お互いに私服姿を見るのは初めてで、彼女は白を基調としたコーデを身にまとっていて、それがやけに似合っていて。
対する自分は黒を基調としたコーデだったのでそのコントラストが面白くて。
自惚れかもしれないが、お似合いだなと思った自分がいた。
当然それはなかったことにはならないし、いつかは笑い話になること。
だが、今の悠人には些か刺激が強かった。
「はは、だろうね」
真琴は乾いた笑いで、悠人の泣き言を流す。
けれどそんな言葉とは裏腹に、真琴は悠人の手を握ってきた。
「でも今日は、私がいる」
無理矢理手を開かされ、恋人繋ぎの形になる。悠人の家では当たり前にやっていたことでも、外で手を繋ぐのは初めてだ。なんだか緊張する。
「ここで彼女と、手は繋いだかい?」
「……初めて会ったので繋いでないです」
「ここで彼女と、キスはしたかい?」
「手繋いでないのにキスなんてするわけないじゃないですか」
悠人の返答に真琴は艶かしい笑みを見せ、悠人を人々の死角へと連れ込んだ。
「ここなら大丈夫だね」
真琴はそう呟き、悠人の唇にキスをした。軽いキスだった。誰かに見られているかもしれない。そんな背徳感も加味して、手に汗が滲む。
そんな手を離そうとしたが、真琴はそれを許さなかった。
「どうだい? 上書きされたかい?」
蠱惑的な視線が、悠人を離さない。その漆黒の双眸に吸い込まれるように、悠人は目を逸らせなかった。
「そりゃ、もう……。あの子とこんなことはしてませんから」
今の悠人にとって、この東京スカイツリーは気になるあの子との初デートの場所ではなく、不思議な関係のお姉さんと手を繋いでキスをした場所になっている。充分に上書きされたと言えよう。
「ふふ、それはよかった」
手を固く握ったまま、真琴は続ける。
「きっとそんな調子じゃ、君はこの先も後悔に苛むだろう。いつまでも引きずって、先が見えない毎日を送るはずだ」
断言をされても、悠人には言い返す言葉がなかった。だってそれは、事実だから。
「私だって後悔している。君ほどじゃあないが、なんでもっとちゃんと出来なかったんだろうって毎日思うさ。一人だったらきっと、これは乗り越えられない」
真琴に出会ってなければ、気分はもっと沈んでいただろう。仕事場にいれば例の子がいるし、家に帰れば嫌なことが反芻し続ける日々を送っていたはずだ。
真琴と出会ってからの数日、確実に考え事をする機会が減っている。それは純然たる事実だった。
「でも、私たちはこれから二人だ。一緒に住んで、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。いつでも話し相手になれるし、いつでも自分の欲をぶつけることもできる。そう考えると、少しは気が楽にならないかい?」
「……そう、ですね。というか、真琴さん以外のことを考える余裕がなさそうです」
「はは、まあ私は手がかかるからな。だから改めて、これからよろしく頼むよ、悠人くん」
真琴は繋いでいた手を離し、握手を求める形で手を差し出した。初めて会った時と動作は一緒。けれど心情が違う。
あの時は迷いや不安もある中で、お互いの利害関係が一致した契約のようなもの。
一方今回は、当時あった不安や迷いはない。利害関係の一致という点は変わらないが、二人でいることでの安心感のようなものもお互い求めている。
悠人に真琴が必要なように、真琴にも悠人が必要なのだ。
悠人は差し出された手を、力強く握り返す。
「はい。よろしくお願いします、真琴さん」
◆
怒涛の有給休暇を終え、翌日の火曜日。悠人は眠い目を擦りながら区役所までの道を歩いていた。なぜ眠いのかは、察してほしい。
三月も下旬を迎えているが、朝はまだ冬と遜色ないくらいに寒く、コートを羽織らないととてもじゃないが耐えられない。
この道でさえ、悠人にとってはあの子との思い出の道になる。朝時間を合わせて一緒に区役所に向かったり、帰りも駅まで一緒に歩いたり。
仲良くなってからほとんど毎日そうしていたから、この道を一人で歩くと勝手に寂しさのようなものを感じてしまう。
——さすがにそう思うのもやめないとな……。
そう思った時。
「片桐さん、おはようございます!」
背後から、聞き慣れた明るく元気な声が聞こえてきた。
その声の持ち主は悠人の職場の同僚にして、悠人を振った張本人。
そして後悔の真因である、悠人の元想い人――赤塚凪だった。




