第32話 母の真意
「母さん……だがね……」
「あなたは黙っていて」
「はい」
——母、つっよ。
なるほどどうやら俊彦は一時的に自由にされていたに過ぎず、実際のところは恵の方が力が上らしい。この家の本当の力関係を垣間見た気がした。
「悠人さん、でしたね」
「は、はい」
凛とした声に、思わず背筋が伸びる。
「あなたの人となりはわかりました。真琴がそこまでする人なのであれば問題ないでしょう。ただ、そんなことはどうでもいいのです」
「え?」
「私が真琴の結婚相手に求めることは一つ。真琴のことを悲しませないことです。あなたにそれが約束できますか?」
真琴とよく似た漆黒の双眸が悠人を掴んで離さなかった。その威圧感に気圧されそうになる。そんな重みが、恵の言葉から感じられた。
だが、ここで引いては今日に至るまでの全てが水泡に帰すという直感が、悠人の頭を過ぎる。
この場面が、明確に分水嶺だった。
——落ち着け。
——大丈夫、何も焦ることはない。
だって真琴のことを悲しませるなんて、そんなことはありえないのだから。
「はい、約束できます」
今度は悠人が、恵に負けじと見つめ返す。
恵は目を逸らさず、悠人も逃げることなく、数秒が数十秒に感じられたその時、恵が口を開いた。
「わかりました。いいでしょう、同棲と結婚を認めます」
「……! ありがとうございます!」
しかし喜んだのも束の間、その決定に俊彦が異を唱える。
「母さん、待ってくれ。いくらなんでも早すぎると思うんだが」
俊彦も俊彦で、依然として譲る気はないらしい。
そんな俊彦にも、恵は毅然として答える。
「私は真琴を信用しています。その真琴が選んだ相手なのだから、そもそも口を挟む余地はありませんよ」
「しかしだな……」
「大体あなただって、初対面から私に求婚していたじゃないですか」
突如放たれた爆弾発言に、
「!?」
声に出ないほど慌てる俊彦、
「は?」
過去一素っ頓狂な声を出す真琴、
「え?」
好奇心を抑えられない悠人と、三者三様の反応を示していた。
特に突然の暴露をされた俊彦の慌てっぷりが頭抜けており、
「か、母さん……!? それは言わない約束だろう……!?」
先程の厳格な父親像が吹き飛ぶくらいには情緒を乱していた。
まあ確かに初対面で求婚した人に早すぎるだのなんだの言われたくはないが、それよりもその話についての興味が勝った。
「すみませんその話詳しく聞いても?」
気づいた時にはそう口にしており、俊彦がものすごい形相でこちらを睨む。
「ええいうるさい! 母さんは認めたかもしれないが私は認めてないからな!」
「そんなこと言わずに、お義父さん」
「誰がお義父さんだ!」
そんなお決まりのやり取りをしていると、恵がさらに追加情報をくれた。
「見苦しいわね。それに家事がどうこう言っていたけれど、そもそもあなた自身が家事を何一つやったことないじゃないですか」
「母さん……!」
——やめてお義母さま! お義父さまのライフはもうゼロよ!
父親としての尊厳が次々と削がれていく中、追い討ちをかけるのは真琴。
「そもそも家に帰ってくることも少なかったな。そのくせいちいち私のやることなすこと口出して。しまいには悠人くんの家事にも口を出して。偉そうに」
「な……お前親に向かってなんて口の聞き方を……!」
「すぐ論点ずらす。あといくら身内でもお前呼びはいただけないね」
それを皮切りに、真琴と俊彦はバチバチに口論を始めた。
そんな様子を見て、恵がこめかみを押さえる。
「客人の前で、こんな……」
「い、いえ、お気になさらず……。いつもこんな感じなんですか?」
「顔を合わせたら大体こうなります。今日は人の前だからならないと踏んでいたのですが……見通しが甘かったみたいですね」
「あはは……」
愛想笑いこそしているが、内心面白いものが見れてラッキーくらいにしか思っていないので本当に気にしないでほしい。
しばらく口論が続きそうな二人を横目に、悠人は気になっていたことを恵に聞いた。
「あの、一つ伺っても?」
「どうぞ」
「真琴さんは、母はあまり私に干渉してこなかったと言ってきました。でも今日の俊彦さんへの対応を見ていると、口を出せないってわけではなさそうで……。その上で静観を貫いていらっしゃったのは、何か理由が……?」
今日の様子で判断するに、秋津家の力関係は父である俊彦よりも明らかに母である恵が上だった。てっきり父が絶対で母が逆らえないパターンだと思っていたがそうではなかったので、その理由が知りたいと思ったのだ。
恵はまだガミガミと言い合っている父娘を一瞥してから、落ち着いて答えた。
「真琴がちゃんと、あの人に反発していたからです」
「……というと?」
「真琴があの人の言う通りに生きようものなら、全力で間に入っていました。けれどあの子は何も言うことを聞かず、自分の意思で自由に生きていた。だから、口を挟む理由がなかったのです」
「……」
恵も、俊彦が干渉気味であることはわかっていた。けれど、真琴が自分の気持ちを優先していたから、あえて放置していたということだろう。
「親の役割は子供をどう育てるか見張るのではなく、どう育つか見守るものですから」
そして恵は今日初めて、柔和な笑みを浮かべた。
それが真琴にそっくりで、少し心臓に悪い。綺麗だからなおさらだ。
悠人も、恵の言うことには概ね賛成だった。ある程度自由を与えてもらう方が、子としては生きやすい。
けれど一つだけ、異を唱えたいことがあった。
「なるほど……。でもきっと、真琴さんはお母さんにあなたの味方だって言って欲しかったと思いますよ」
「……それはどうして?」
「あの人はずっと、自分の絶対的な味方を探していましたから」
「……!」
「確信があるわけじゃありません。きっと、彼女はずっと一人で戦ってきたと思うんです。怠惰なのに器用だから、なんとなく周りに合わせることができてしまって、一人には見えない。けれど心の中では、自分を理解してくれる人をずっと探してたんだと思うんです。安心したかったんだと思うんです」
自分がそうなることができる保証はないし、今後そうなることができるとも限らない。
だが、そうありたいと、何があっても真琴を守ることができる立場にいたいと思う。
「あなたがその、絶対的な味方だと?」
「なれたら、最高ですね」
「……なるほど、真琴があなたを選んだ理由が少しわかった気がします」
恵はそう独りごちて、ティーカップの紅茶を啜った。
「真琴のことをよく見ているのがとても伝わりました。親の心子知らずとはよく言ったものですが、逆もまた然りと言うことですね」
「そうだと思います。だから今度、機会があれば言ってあげてください。味方は、多いに越したことはありませんから」
「少し気恥ずかしいですが……善処します」
そんな会話を朗らかな雰囲気で終えて、二人は微笑み合う。
すると、いつの間にか口論を終え落ち着いていた真琴がこちらを見て、
「なんか仲良いな、二人とも……。悠人くん、職場の同僚を誑かすだけでは飽き足らず、母さんにまで手を出すのか?」
などと宣った。
「いや、ちょ、なにを——」
言ってるんですかと否定しようとした悠人だったが、
「どういう意味だそれは! 真琴、詳しく聞かせなさい!」
激昂する俊彦に、
「あら、私、悠人くんなら……いいわよ」
悪ノリする恵と、秋津家はそんな隙を与えてくれなかった。
「聞いてくれよ父さん、この子、職場の子を勘違いさせて告白までさせたんだ」
「なんだって!?」
「いやあなたたちさっきまでバチバチにやり合ってましたよね!? なんで意気投合してんの!?」
そんなツッコミも意味を為すことはなく、その後誤解を解くのに二時間は要したという。
こうして、突発秋津家訪問は、悠人を犠牲に無事に幕を閉じたのだった。




