第3話 契約成立
「…………は?」
理解が追いつかなかった。言葉は聞こえているはずなのに、あまりにも突拍子な発言で脳が受け入れるのを拒んでいる。
「え、いや、誰が? どこに?」
「私が、ここに」
「……頭おかしいんですか?」
本当に色々と言いたいことはあるが、悠人の口から出たのはそんな言葉だった。多岐にわたる思いを一言にまとめるとそれにしかならない。それほどまでに、彼女の発言は群を抜いて気が狂っていた。
「はは、至って正常だよ。まあ確かに、お酒で多少気分が良くなっていることは認めざるを得ないけどね」
——女性を殴りたくなったのはこれが初めてだな。
頭を引っ叩きたくなる気持ちをぐっと堪えて、悠人は努めて冷静に事を運ぶ。
「そもそも、俺達お互いの名前すら知らないんですよ? そんな相手にその提案はしないでしょう、常識的に考えて」
「じゃあまずは自己紹介だな。私は秋津真琴。今年で二十八歳の会社員だ。事実を述べてはいるが、酔った時にバッグごと紛失したらしく以上のことを証明できる術はない。よろしく」
真琴は流れるように自己紹介を終えた。
なにもよろしくではない。確かに彼女を運んだ際、荷物らしくものは見えなかったがここまでなにも持ってないとは思わなかった。警察に届けたところでいい展開にはならなかっただろう。そこは一つ、肩の荷が降りた気がした。
真琴は目線で次は君の番だと促してくる。気は進まないが、先にされた以上名乗らざるを得ない。
「……片桐悠人です。今年で二十六の公務員です」
悠人は端的に最低限の情報で自己紹介を終わらせた。
「……それだけかい?」
「それだけです」
真琴は考えるような仕草をしてふむ、と頷いた。
「そうか。まあいずれ話してくれることを期待しているよ」
一体どんな立場でその言葉を発しているのか、悠人にはてんでわからなかった。喋り方も相まってなぜかずっと偉そうに聞こえる。
「何はともあれ自己紹介は終わったね。ということで改めて提案しよう。私をこの家に住まわせてくれないか?」
お互いのことを多少知ったところでその提案はやっぱりおかしいと思うが、真琴を拾ってきたのは悠人自身。乗り掛かった船ということで、話だけは聞くことにした。
「……理由を聞いてもいいですか?」
「かくかくしかじかで帰る家がないんだ。財布もスマホもないからホテルにも行けない。かといって公園では寝泊まりできない。けれど月曜日からは仕事がある。だから次の家が見つかるまで住まわせてほしいというわけだ」
「……なるほど」
一応納得できる理由はあった。初対面の男の家に住まわせてほしいと真顔で言えるその神経はどうしても理解できないが、彼女が割とピンチということだけは伝わってくる。
「他に頼れる人はいないんですか?」
「いない。友達はいないし、両親には勘当されている」
「そうですか……」
何をしたら両親に勘当されるのかという新たな疑問が浮かんだが、現在真琴が頼れる人間というのが自分しかいないということは理解した。
そして悠人は、自分がこの手の人間を放っておけないことも理解している。
とはいえ前のめりに承諾するのも変だ。どう都合をつけようか頭を悩ませていると、真琴が口を開いた。
「もちろんタダでとは言わない。お金が使えるようになれば自分の生活費も払うし、プラスアルファで謝礼も支払おう。それと、これはおまけだが——」
真琴は一呼吸置いて、信じられない言葉を口にした。
「いついかなる時も、私の身体を好きに使ってもらって構わない。私は君の欲を全て受け止めよう」
「……………………は?」
先ほどより長い間で、悠人は素っ頓狂な声を出した。
目の前の女性が何を考えているかさっぱりわからない。
「おや、心底理解できないという顔をしているね」
「……当たり前でしょう何考えてるんですか」
「そもそもしばらく住まわせてくれというお願いが傲慢すぎるからね。君に明確なメリットがないといけないと思うんだ」
「メリット、ですか……」
「そう。金銭面はもちろん、精神や肉体的にもメリットがあってこそ私の願いは受け入れられると思っている。そう思わないかい?」
問われ、悠人は考える。
確かに全くの他人を家にしばらく泊めるという行為は異常である。金銭面はもちろん、精神的にも肉体的にも厳しくなってくる場面はあるかもしれない。事実ここは一人暮らし用のアパートだ。他人と住むには少し狭い。
そこで真琴は、自らの身をもってそれをカバーしようとしているのだ。それ自体は合理的な提案だと言えよう。
「まあ理解はできますけど……。でも僕が同性愛者だとしたら、それはメリットでもなんでもなくなりますよね」
悠人は異性愛者で、性的興奮を覚えるのも異性だが、真琴はそれを知らない。意味のない問答だが、丸め込まれたくないという悠人のささやかな抵抗だった。
けれどそんな抵抗が全くの無意味であることを、悠人は彼女の発言で思い知る。
「ああ、それなら問題ない。だって君、さっき私のこと襲おうとしてただろう?」
「——!」
虚を衝かれ、悠人は固まる。言葉が出なくなり、全身から嫌な汗が吹き出るのがわかる。
ギリギリ残った理性で踏みとどまったとはいえ、途中までは完全にその気でいたのだ。これを理由に無理難題を言いつけられても、悠人には反論する根拠も度胸もない。
悠人は証拠を突きつけられた犯人のように、言葉をひねり出した。
「起きてたん、ですね……」
「ああ。でも勘違いしないでほしい。私はそれを追求するつもりはないんだ。むしろ評価している」
「評価、ですか?」
無防備な女性を襲おうとした男のどこに評価できる点があるというのか。
「だってほら、あの場面になったら九割の男が手を出すだろう? まあ昨今は不同意性交だのなんだのあるかもしれないが、少なからず私にも責任はあるからな。あれで襲われても文句は言えない。でも君は襲わなかった。最初からするつもりがなかったならまだしも、途中でやめた。理性で押しとどまったんだ。私はそこを評価したいし、そこが信用できると思った。それに、赤の他人がいるのにもかかわらず貴重品を置いてお風呂に入ってしまうところもね」
呆気にとられる悠人を横目に、真琴は更に続けた。
「そして私は頼る相手がいない。現状財布もスマホもない。だから素性が知れなくても他人を頼るしかない。だったら、少しでも信用できる相手を頼るべきだろう?」
「それはまあ、そうかもしれませんが……。仮に、あなたが俺のことを信用したとしても、俺があなたのことを信用できる理由がありません。これが壮大な美人局である可能性だって大いにあるわけですから」
どうやら真琴は、襲おうとしたこと自体は水に流してくれるらしい。むしろそこが評価できると。悠人には理解できないが、真琴がそれで納得してくれるならそんなにありがたいことはない。
とはいえ、悠人が真琴を信用できる理由は今のところ一つもない。そもそも名前すら、本名かどうかわからないのだから。
「ふむ。それは確かにそうだな。どうしたものかな……」
悠人の失礼とも捉えかねられない発言にも、真琴は真剣に悩んでくれる。
しばらく頭を悩ませ、彼女は口を開いた。
「……すまない。今はどの可能性も否定できるものを持ち合わせていない。だからここは一つ、君の良心に訴えかけてみようと思う」
そうして、真琴は悠人に向けて頭を下げた。
「どうか、助けてはくれないだろうか」
その声はどこまでも真摯で、真剣だった。大人になってから、他人にここまで頭を下げる機会なんてそうない。
——これが、この人なりの誠意……。
悠人にとってその誠意は、彼女の提案を承諾するのに充分な理由になった。
誠意には、誠意で応えなければならない。
「……わかりました。顔をあげてください」
真琴は恐る恐るといった様子で顔をあげ、どこか不安そうな瞳で悠人を見据えた。
「いいのか……?」
「あなたを拾ってきてしまった俺にも責任はありますし……。それに、ここで見捨てるのも心苦しいですから」
「……そうか。ありがとう、恩に着るよ」
そう言った真琴は、右手を悠人の前に差し出した。
「改めてよろしく、悠人くん」
差し出された手を、悠人はしっかりと握り込む。
「……よろしくお願いします——真琴さん」
こうして、絶賛後悔に苛まれている男と、酔い潰れて公園で寝ていた女との奇妙な共同生活が始まった。




