第2話 迷惑ついでに
遅い時間だったからか、幸い誰にも見られることなく悠人は自宅へと辿り着いた。
1K8畳、鉄骨造のアパートの一室は、一人暮らしの男性らしく、ただ生活を送るだけの空間が広がっている。
その一室の角に配置されているベッドの上に、背負った彼女を寝かせた。
「お、重かった……」
彼女が起きていたら殺されそうなことを独りごちて、悠人は床に座り込んだ。いくら女性といえど、なんの力も加わっていなければただの肉塊だ。そこに性差はない。重いものは重いのだ。
一息ついて、ベットに寝転がる彼女を見つめる。
公園では暗くてよく見えなかったが、彼女はあまりにも——綺麗だった。
艶やかな黒髪に陶器のような白い肌。そしてすっと伸びた鼻筋。
光源は月明かりだけだったが、彼女の美しさを映し出すのには充分な明るさだった。
自然と、彼女の顔に手が伸びる。顔にかかる髪を払いのけ、改めて彼女の顔をまじまじと見た。
その美しさに、思わず生唾を飲み込む。そして邪な考えが頭をよぎった。もうすでに犯罪のようなことをしているのだからこのまま重ねても問題ないのではないか、と。
悠人はそのまま、彼女が羽織っているスーツのジャケットに手をかけた。身体を浮かせ、右腕、左腕と脱がしていく。布擦れの音が部屋に響き、悠人の耳にもはっきりと届いていた。
ジャケットを脱がし終わると、程よく張った胸部が目に入った。ブラウス一枚越しに、男が本能的に求めるものがそこにある。悠人も経験がないわけではないが、最近はご無沙汰。興奮は最高潮に達していた。
そしてついにブラウスの第一ボタンに手をかけ——そこで手を止めた。
「……ダメだろ、これは」
傷心で自暴自棄になっていることは認めざるを得ない。あそこで警察を呼ばず家に連れ帰ることを選んだ時点で、自分の判断能力が著しく落ちていることを悠人は理解していた。
当然酒に酔っているのもある。だかそれだけでは説明できない衝動のようなものが、確かに胸の内にあった。
一つ、大きな深呼吸をして心を落ち着かせる。
頭をクリアにしてから、悠人は床に置いた彼女のジャケット拾い上げハンガーにかけた。そして彼女にはブランケットを掛けて、もう一度深呼吸。
「……風呂に入ろう」
正直今すぐにでも寝たい疲労度だったが、今は何もかもを洗い流したいという思いが強かった。
ゆっくりと立ち上がり、収納棚から適当に部屋着と下着を引っ張り出してから風呂場へ向かう。その足取りは重く、風呂場に着くまでの時間がいつもの倍かかるように感じられた。
なんとか風呂場に辿り着き、服を脱いで浴室に入る。悠人はシャワーのハンドルを捻り、そのまま水を被った。当然お湯はすぐに出ない。それをわかっていて、悠人はあえてそれを選んだ。冷水を頭から被り、物理的にも精神的にも頭を冷やしたかったのだ。
しばらく冷水を浴び、少しずつ思考がクリアになっていく。
——これから俺はどうすればいい……?
酔い潰れた女性を部屋に連れ込んだ。これは揺るぎようのない事実。
控えめに言っても犯罪だ。警察に突き出されてでもしたらそれこそ一発でお縄だろう。
最初に彼女を見つけだ時点で通報するのが一番手っ取り早かった。彼女の意思は無視して、警察に預けてしまうのが一番安全だったと今なら言える。
だが、悠人にはそれを選ぶことが出来なかった。
事実、彼女はもう悠人の部屋のベッドで寝ているのだ。だったら今考えるべきは、この先のことだろう。
冷水から温水に切り替え、冷えた身体を温めていく。
彼女が目覚めた後、なにをするか。悠人の考えるべき目下の課題はそれだった。
まず考えられるのは謝罪だろう。というか、土下座だ。
言い訳なんていらない。誠心誠意謝る。
あとは懇願だ。警察に突き出すのだけはやめてくれという、あまりに情けない願い。
なんて滑稽な行動だろうか。思わず乾いた笑いが出る。
だが背に腹は変えられない。どんなに惨めでも、方法がそれしか残されていないのであればやるしかないのだ。
覚悟が決まり、悠人は急いで髪と身体を洗って風呂を出た。素早く髪の毛を乾かし、部屋に戻る。
彼女は依然としてベッドに横たわっていた。
――まだ起きてないな。
そこで一つ、悠人は大きなあくびをした。時刻は深夜一時を回っており、朝から働いて飲み会までこなした身体はすでに限界を迎えている。
とはいえ、今日はベッドを使えない。床に客人用の布団を敷いて寝るしかない、そう思ったときだった。
「貴重品を置いてお風呂に行くなんて、君は不用心だな」
「っ……!?」
少しハスキーで凛とした声が、部屋に響く。声の主は当然、件の女性。
彼女はゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰を掛けた。
初めて正面から見る、彼女の顔。
すっと横に伸びた切れ長の目は、余計な感情を削ぎ落としたように静かで、どこか理知的な光を宿している。
やはり彼女は、とんでもなく綺麗だった。
けれど、悠人にはそんな感傷に浸っている余裕はない。
息つく暇もなく、悠人は彼女の足元めがけて土下座をした。
「勝手に運んですみませんでしたなにもしていないので警察だけは勘弁してください」
手の角度や頭の低さまで、これ以上ない会心の土下座だった。頭を床に擦り付け、必死に許しを請う。
警察さえ逃れられれば、あとはなにしたってされたって構わない。ただただ前科を作りたくないのだ。
あとは彼女の判断に任せるしかないが、その彼女が取った行動は悠人の予想の斜め上を行くものだった。
「……ふふ、あはははは! 土下座って……あははは!」
まさかの高笑い。
「いや、こっちは割と真剣なんですけど」
誠意を笑われ、悠人は少しだけ気を悪くした。こちらに全面的に非があるとはいえ、大真面目に考えて実行したことを笑われるのはなんか癪だ。
「ああ、ごめんごめん。けれど大丈夫だ、警察に突き出したりなんてしないよ。むしろ感謝さえしている。あそこであのまま寝ていたら、何されてたかわかったもんじゃないからね」
独特な話し方だなと思いつつも、悠人はその言葉に安堵した。これで一応は、警察に厄介になることはない。が、まだ安心もできない。
「いえ……とんでもないです……」
とはいえ、守らなければという正義感で動いたわけではないし、それなりに邪な気持ちにもなったのでその感謝を素直には受け取れなかった。
「迷惑ついでにさ、一つお願いがあるんだ」
「なんですか?」
彼女は澄ました顔で、とんでもないことを言い放った。
「しばらく、この家に住まわせてくれないかな」




