第20話 来訪
凪の家は北総線の新鎌ヶ谷という駅にある。そこで一人暮らしをしているという話は聞いていたが、さすがに訪れたことはなかった。
新鎌ケ谷までは特急に乗ることができれば十五分ほど。各駅停車なら二十五分ほどで着く。今回は後者だったので、悠人は三十分弱凪に腕を掴まれながら電車に揺られることになる。
車窓からは、沈んだ太陽が残した余韻で染め上げた夕空が見え、その昼にも夜にも属さない曖昧な時間が二人を包んでいた。
「……」
「……」
そんな空間の中で、二人は並んで車窓を眺める。
かたやいかにも仕事帰りといった風貌の女。かたや地味で髪が若干べたついている男。その組み合わせだけで目立ちそうなのに、そんな女が男の腕を掴んでいるのだから目立たないはずがない。さらに今は役所の職員の体験時間とも被っている。知り合いに見られる可能性だってある。
しかしそれでもなお、凪は悠人の腕を離さなかった。離せばいいものを、もはや意地なのか、顔を赤くしながら頑なにやめようとしない。
「もう離したら?」
「ダメです。片桐さんどっか行っちゃいますから」
「行かないって……」
風呂に二日入っていない悠人からすれば、正直一刻も早く凪から離れたかった。けれど腕を掴まれている以上、そうするわけにもいかない。
最後の抵抗で少し距離を開けて座り直すが、すぐに凪に詰められてしまう。詰められたからとまた距離を取ると、また詰められる。
「……あの」
「なんですか」
「臭いと思うので離れたほうがいいと思うのですが……」
「私は気にしませんし、それに——」
そう言った凪は悠人の肩あたりに顔を近づけ、スンスンと二回鼻を動かし、
「っ!?」
「全然臭くないですよ。本当に二日もお風呂入ってないんですか?」
なんて言って乗っけるのである。
——心臓に悪いな……。
「まあでも家着いたらすぐお風呂入ってもらいますからね」
「え、俺赤塚さんちのお風呂入るの? 銭湯とかは?」
「そんなものないです」
「そんなわけ——」
「着替えはどこかで買って帰りましょう」
「ええ……」
銭湯なんて絶対あると思うのだが、生憎今はスマートフォンの充電が切れているので調べることができない。調べ事をぱっと調べられる事がどれだけ便利なことか、文明の利器を失って改めて理解できた。
新鎌ヶ谷駅に着いた二人はイオンで食材を買ったり、服を買ったりしてから凪の家に向かう。
ちなみに買い物中どうしても腕を離さないといけない場面では「すみません!」と言われ足を踏まれていた。なんで?
凪の家は駅から五分ほどのところにあるオートロックのマンションだった。駅から近く、街灯も多い道を通るため、女性が一人暮らしする場所として最適と言える。
「うん、ここなら安心して一人暮らしさせられるな」
「お父さん?」
エレベーターで五階に上がり、悠人は凪の家に部屋に足を踏み入れた。一人暮らしの女性の部屋に入るの初めてなので少し緊張している。
「お、お邪魔します……」
「散らかってますが、どうぞ」
なんて言ってるのが謙遜だと一発でわかるくらいに、玄関は整理整頓されていた。靴は全てシューズボックスに仕舞われ、小物類も定められたであろう場所に綺麗に収められている。それでいてなお、凪が好む白やピンクでまとめられており、彼女の生活水準の高さが窺えた。
「あ、片桐さんはそのままお風呂に直行でお願いします」
「え?」
「まさか二日お風呂入ってないご身分でリビングに上がろうと思ったんですか? 常識ないんですか?」
「急に冷たいじゃん」
そもそもこの状態で敷居を跨いでいる時点で相当抵抗があるため、悠人としては一刻も早く風呂に入りたいくらいなのだが。
「俺マジで赤塚さんちの風呂入るの?」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
「そうは言ってもね……。というか赤塚さんは嫌じゃないの?」
「他の有象無象なら嫌ですけど、片桐さんならいいですよ」
「俺のライン緩すぎない……?」
他の有象無象に分類された男共に哀悼の意を表しつつも、なんだか特別扱いされているようで悪い気はしなかった。自分はその位置にいるんだと、安心してしまう。
「あ、どうせなら私の垢すり使います? 嬉しいですよね?」
「使わないよ!? あと嬉しい前提なのなに!?」
「そしたら早く入ってくれるかなって……」
「なんだと思われてるんだ俺……」
「むっつりスケベ?」
「まあ、間違ってはないけど」
「うわ急に真顔にならないでくださいよ。とにかく早く帰ってくださいね、私ご飯作りますから」
凪はそう言い残してドアを閉じ、悠人は一人廊下に取り残された。
「…………入るか」
脱いだ服をどうすればよいかすら聞けずに、悠人は洗面所に足を踏み入れた。
洗面所も当然のように整理されており、こちらもまた小物類は白とピンクで統一されている。
じろじろ見ないのが礼儀なのだろうが、興味が勝った悠人はそんなことお構いなしに見回す。その中で歯ブラシが一本、コップに立てかけられているのを見つけた。
——一本か。
——待った、なんで俺はホッとしたんだ……?
もう悠人には関係ないはずなのに、凪の家に頻繁に来るような人間がいないことに安心した。その事実が脳にしこりのような形で残る。
凪とのことは終わったはずだと、真琴のことが好きだと自覚しているくせに。
——赤塚さんに彼氏がいなかったら安心するのか、俺は。
そんな気持ちの悪い自分に辟易としつつ浴室に入ると、
「おお……」
先ほどとは違うベクトルで気持ちの悪い簡単な声が出た。
当たり前だが全てが女性向けのもので構成されており、有名メーカーのシャンプーやコンディショナー、クレンジングや洗顔など、目にするものすべてが新鮮に写る。
「これ使っていいのか……?」
見るからに高そうなものもあって使うのが申し訳なくなってくる。こんなことなら小分けのシャンプーやコンディショナーを買ってくればよかった。
とはいえ遠慮してケチった結果汚れが落ちなかったら最悪なので、悠人は覚悟を決め二日分の汚れを落とす心づもりで念入りに身体のあちこちを洗った。
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