第13話 修復
自席に着く頃には目眩もすっかり治まっていて、やっぱりただの疲れなのだろうと安堵する。
SNSを見たりニュースサイトを見たりして時間を潰していると、係の入り口から元気な声でおはようございますと声が聞こえた。
一時は声を聞くだけで心が乱されていたその声の主は、赤塚凪。目下悠人の悩みの種である。
凪は真っ直ぐ席へ向かい悠人の前の席の近くに立つと、
「おはようございます、片桐さん」
と悠人だけを名指しして挨拶をした。
そう言われてしまえば悠人も、
「……おはよう」
と返すしかない。先日の問いにまだ答えは出ていないのだが、凪はそのあたりは気にしないようだ。
——いったいどういうメンタリティで生きてるんだろうな、この子は。
良くも悪くも感情で動きがちな凪彼女は、あまり後先考えずに自分の気持を優先して物事を決める。
だから今もそういうことなのだろうと、納得せざるを得ない。
仕事が始まっても、やはり凪はいつも通りの様子でてきぱきと仕事をしている。電話のコール音がなればすぐに電話に出て、分からなければ周りに質問し、当然悠人にも質問をする。
凪が普通なのだから悠人も普通にしなければならない。そう思い直し、昨日のことは一旦頭の片隅に追いやって、凪の質問に丁寧に答えながら仕事を進めていく。
その日はそれなりに忙しく、気がつけば終業時刻を回っていた。とはいえ、残業するほどでもないので素早く帰り支度を整える。
役所を出て今日の夕飯は何にしようか考えながら帰り道を歩いていると、後ろから元気な声で呼び止められた。
「お疲れ様です!」
「……お疲れ様」
相変わらずまぶしい笑顔見せてきたのは、当然のように赤塚凪だった。こちらが悩んでいるのもお構いなしに突撃してくるところは、いかにも凪らしい。
「どうしたんですか?」
「いや昨日の今日でよく普通にできるなと」
「嫌味ですか?」
「賞賛だよ」
事実、空気を読まずに誰でも分け隔てなく接する能力の高さは目を見張るものがある。簡単に真似できるものではない。
「ほんとですか〜?」
そう言って凪はケラケラ音を立てて笑う。その笑顔を見ていると、友達になるという提案に何か裏があったり、考えがあったりするようには思えない。
——これは俺が甘すぎるか?
惚れた弱みというやつで、確かに凪に対して判断が甘くなることは否めない。それこそ、仕事で自分が害を被るミスをされても、ヘラヘラ笑って許してしまうくらいには。
とするのであれば、友達に戻るという選択肢もあまり深く考えなくていいのかもしれない。むしろ自分が悩みすぎなのかもしれないと、目の前の明朗快活な女の子を見て悠人は思う。
凪の提案を受け入れるかは悠人次第。振ったくせに友達に戻ろうと言い出す神経が分からないと、そう言ってしまえばそれまで。
悠人も全くそう思わないわけではない。
だが咎めるほど気にしてるかと問われれば、答えはノーだ。
「昨日の話なんだけどさ」
意を決して悠人は口を開く。凪の本心はわからない。だから後は自分がどうしたいかだけ。ならば——。
「俺も友達に戻りたいなって思う。友達っていう正式な肩書きを得たところで、俺らの関係ってあんまり変わらないかもしれないけど、でも、お互いに変な気まずさを抱えるよりかは遥かにマシだと思うから」
悠人がそう言い切ると凪が恐る恐る悠人の目を見た。
「……いいんですか?」
「いいも何も、拒否する理由が無いからね。だから改めて、これからよろしくね、赤塚さん」
悠人のその言葉に、凪はみるみるうちに目に涙を溜めていった。
「え、ちょ、ストップ!」
どんな泣き止ませ方だよと内心ツッコミつつも、実際はそんな場合じゃなかった。構図的には、ただ年上が年下を泣かせているようにしか見えない。しかも職場の帰り道で。
悠人があたふたしていると、凪がしゃくりあげながらなんとか言葉を紡ぐ。
「ごめ、んなさい……。安心したら、なんか、止まらなくなってしまって……」
周りを見渡すとちらほらこちらを見ている視線がいくつかあった。それもそのはず。ここは道のど真ん中だ。
「赤塚さんちょっと移動しよう? ね?」
その視線から逃れるように、悠人は凪を人が少ない道へ誘導した。
◆
「すみません、落ち着きました……」
「ああ、うん、よかった」
凪本人さえもどうして涙が出ているかわかっていないようで、止めようとしても止まらないといった状況だった。
その間の悠人はというと、何もできずにわたわたしていただけ。情けない。
「……片桐さんの前で泣くのはこれが二回目ですね」
「あー、前は元カレの話した時か」
振られる前にも一度、悠人は凪の涙を見たことがあった。
車で出かけた帰り道に車を止めて話し込んでいた時、お互いに過去の恋愛の話になったのだ。
凪の一つ前の元彼はどうやらモラハラDV彼氏だったらしく、その内容は男の悠人でもドン引きするレベルで、その話をしているうちに凪は涙が止まらなくなってしまった。
そのときはまだ振られる前で仲もかなり良かったから、身体的接触も許されており、頭を撫でながら手を握ったことを覚えている。
それを凪が嫌がっていた様子もなかったので、それが許されていてなぜ告白してなかったのかと今でも思う。
けれど今はもう身体的接触許されない。だから目の前で泣かれても、悠人にはどうすることもできなかった。
「あの時嬉しかったです、親身になってくれて」
「我ながら恥ずかしいことをしたなって思ってるよ」
今思い返せばまあまあ痛いことをしている。付き合ってもないのによくそんなことができたものだ。
「でも確かに救われたんです。……当時はそういうのはなかったので」
「あー仲いい子が元カレと遊びに行ってたりね……」
「片桐さんよく覚えてますね」
「そりゃ衝撃的だったから」
凪の友人、しかもそれなりに仲の良い友人が、凪と元彼が付き合っていることを知りながら二人で出かけたいう話を聞いたときは、さすがに声が出なかった。とても理性を持った人間のやることではない。
でももっと驚きなのは、その友達といまだに関係が続いていることだ。
「け、けどいいところもあるんですよ」
「DV彼氏を庇う彼女みたいになってるよ」
「実際そうだったので……」
「コメントしづらい……」
そんな軽妙なやり取りをして、悠人は仲良くしていた当時の空気感を思い出していた。それは凪も同じだったらしく、思わず目線が合う。
「なんか懐かしいですね」
「そうだね」
気づけば、何だかセンチメンタルな気分になっていた。今の関係も悪くないけれど、自分がもっとしっかりしていればこのやりとりをもっと親密な関係でできていたと思うと、どうしてもやりきれない思いが浮かび上がってくる。
何度も何度も押さえ込んできたものが、また上がってきてしまいそうになるのだ。
その思いになんとか蓋をして、悠人は口を開く。
「まあそういうことだからさ、また馬鹿みたいな話しようよ」
「……はい! 本当にありがとうございます……!」
凪は深々と頭を下げた。悠人としては頭を下げられるようなことは何もしていないので、慌てて止めさせる。
「いや俺、そんな大層な事してないから」
渋々頭を上げた凪は自信なさげに呟き始めた。
「……正直友達に戻ることは難しいかなって思ってたんです。関係性が進むのを拒んだのは私なのに、その私が提案しているので……」
——わかっててなお、か……。
内心そう思ったが、それを口に出すのは藪蛇に感じられた。悠人は凪が喋る言葉に黙って耳を傾ける。
「だから本当に感謝というか、片桐さん本当に優しいなって思ったら、勝手に涙が溢れて来ちゃって……。わがままな私を受け入れてくれてありがとうございます」
「まあ赤塚さんがわがままなのは今に始まったことじゃないから、そんなに畏まらないでよ」
こんなに真っ直ぐお礼を言われたのは久々なので、その空気に耐えられず場を茶化す。
それも見抜かれているのか、悠人の言葉に凪は暖かい笑みを返すだけだった。
「あー! なんか泣いたらお腹空いてきちゃいました。良かったらこの後ご飯どうですか? 今日のお礼も兼ねて!」
「あー……」
前までだったら二つ返事で言っていただろうけれど、今は真琴がいる。
悠人は真琴のご飯を作らなければならないし、真琴の服を洗わなければならない。そして、真琴と一緒に寝なければいけない。
だからその生活に凪が入りこむ隙間は、もう無かった。
「今日はごめん、行けないや。また誘って」
けれど完全に拒否することもできなくて。「また」なんて来るはずないのに、期待させるような言葉を使ってしまう。
「わかりました! また誘いますね!」
そんな凪の健気で眩しい笑顔を見て、悠人は心を痛める。心苦しいが、これは必要な痛みだとなんとか自分に言い聞かせた。
「じゃあ帰りましょうか」
「うん帰ろう」
一方的な痛みを抱えたまま、二人は談笑しながら帰路についた。
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