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相貌失認? 聞いた事ないな。
「それって、目が悪いってこととは違うの?」
「うん、視力は関係ないの。目で見ている情報は脳に届いているんだけど、それを『個人の顔』として認識する脳の機能だけが働かないのよ。私、病院にいた時にそういう患者さんを診たことがあるから」
そういえば、なおちゃんって結婚前は看護師をやっていたな。
「顔が見えているのに、誰か分からないってこと? でも、あの女は僕のことを見て『健吾』だって言ったじゃない。それに、なおちゃんだって……」
「私の髪、ポニーテールにしているでしょ? 正面からだと、後ろで結んだ髪は死角になって見えにくいのよ。彼女にとっては、まず『健吾の車』があって、そこに『短い髪に見える人影』がいた。だから、私の声を聞くまでは、助手席にいるのが女だって確信が持てなかったのよ」
「……じゃあ、僕の顔がその健吾って人に似てるから間違えたんじゃなくて?」
「似ているかどうかすら、彼女には分からないはずよ。相貌失認の人は、目や鼻といった『パーツ』は見えるけど、それが組み合わさった『顔という絵』として覚えられないの。だから彼女は、顔以外の特徴……例えば車の車種やナンバー、服装で人を判断するしかないの」
「……それじゃあ、彼女にとっては……」
「そう。彼女の脳内では『この軽自動車を運転している男=健吾』というルールが絶対なのよ。たとえ中身が別人でも、彼女の目には『健吾』という記号として映ってしまう。顔を見せて『僕は別人だ』と訴えても、彼女にはその違いを識別する術がないの」
「それじゃあ、僕がいくら否定しても無駄ってことなのか」
「ええ。彼女は『間違えている』んじゃなくて、そうとしか『見えない』のよ。……れいちゃん、この路地を抜けたら、できるだけ遠くに逃げよう。あの執着心、病的なものを感じるわ」
「ああ、そうだね」
車が信号待ちになったところで、僕はポケットにしまってあったGPSを取り出した。
「これを菓子箱にしまっておいて」
「うん」
GPSを受け取ったなおちゃんは、菓子箱の蓋を開いた。
その途端、菓子箱に入れてあったGPS発信機が鳴り出す。
「しまった! もう一時間経っていたのか」
「れいちゃん、どうする?」
「もちろん逃げるけど……」
高速道路入口の看板が目に入った。
そうだ!
「なおちゃん。今、仕事はどうしているの?」
「え? まだ、決まっていないけど」
「じゃあ、このまま高速道路を移動するけどいいかな?」
「私は大丈夫だけど、れいちゃんは良いの? 明日仕事でしょ?」
「職場付近の駐車場に止めて、そのまま出勤するよ」
「いいの? 都心の駐車場高いよ」
「朝になったら職場の駐車場が開くから、そこに入れさせてもらう。なおちゃんはネットカフェにでも隠れていて」
「うん。れいちゃんがそれでいいなら……」
そう言ってから、なおちゃんは菓子箱にGPSを入れようとした。
「待って。GPSはそのままドリンクホルダーにでも置いておいて」
「え? いいの? あいつが追いかけてくるよ」
「あいつを都心に誘き寄せるんだ。その後でGPSを隠す。そうすれば、あいつはこっちの方へは来なくなるかも」
「うまく行くかな?」
車はインターチェンジへ続くランプウェイに入って行った。




