第7話:色彩の喪失と、銀色の聖域
辺境伯領の朝は、かつてないほどの「異様な静寂」に包まれていた。
北風が唸りを上げるこの地では、常に風の音が城の石壁を叩いている。だが、その日の静寂はそれとは違っていた。まるで世界から「音」そのものが吸い取られてしまったかのような、耳が痛くなるほどの無音。
そして、その静寂を切り裂いたのは、城館の二階にある執務室から響いた、ギルバートの怒号だった。
「……何事だ、これは! 説明しろ!」
窓を開け放ったギルバートは、目の前の光景に絶句していた。
昨日まで、リリアナが泥にまみれ、喉を枯らして歌い続けることで辛うじて緑を保っていた中庭。それが、一夜にして「死の庭」へと変貌していた。
丹精込めて育てられていたはずの花々は、まるで毒を飲まされたかのようにどす黒く変色し、無惨に首を垂れている。噴水の水はどろりと濁り、そこからは生き物の腐敗したような、鼻を突く悪臭が漂い始めていた。
「辺境伯様! 北の、北の祭壇が……!」
血相を変えて飛び込んできた騎士は、恐怖に顔を歪めていた。
「祭壇がどうした! リリアナはどうした、あの女をすぐに祭壇へ連れて行けと言ったはずだ!」
「それが……リリアナ様の姿が、どこにもございません! 離れの部屋はもぬけの殻で、扉の鍵は……内側から、見たこともないような銀色の炎で焼き切られた跡が残っております!」
ギルバートの脳内に、激しい不協和音が鳴り響いた。
逃げた。あの、自分の一瞥だけで身体を強張らせ、震えていた無能な道具が。
この魔物の跋扈する極寒の地で、自分という主人の庇護なくして生きていけるはずのない「呪い子」が。
「探せ……! 地の果てまで追い詰めてでも、あの女を連れ戻せ! あの女がいなければ、この領地の結界が持たんことぐらい分かっているだろう!」
ギルバートは拳を机に叩きつけた。
彼はまだ気づいていなかった。自分が「道具」と呼び、踏みにじり、磨り潰してきた少女こそが、この不毛な地に精霊を繋ぎ止めていた唯一の「希望」であったことを。
リリアナという存在を喪失した瞬間、この土地を支えていた精霊たちの最後の慈悲が、完全に断ち切られたのだ。
◇◇◇
同じ頃、リリアナは、人生で初めて「痛み」のない目覚めを迎えていた。
意識がゆっくりと浮上していく。
いつもなら、冷たい板張りの床の冷気が体に染み、腫れ上がった喉が焼けるように痛むはずだった。だが、今の彼女を包んでいるのは、雲の上に寝そべっているかのような、得も言われぬ柔らかさと温かさだった。
(……温かい。喉が、痛くない……?)
リリアナがゆっくりと瞼を持ち上げると、そこは白銀の光に満ちた、夢のような空間だった。
天蓋からは真珠のような輝きを放つ極薄の絹が幾重にも垂れ下がり、窓の外からは、辺境では決してあり得ない、清らかな水の流れる音と、百の花が一度に咲き誇ったような芳醇な香りが流れ込んでくる。
リリアナはおそるおそる、自分の細い指先を目の前にかざした。
驚いたことに、昨日まで泥に汚れ、寒さでひび割れていたはずの肌は、透き通るような白さを取り戻し、真珠のような光沢を放っている。
「目覚めたか、私の愛しき歌い手よ」
その声が響いた瞬間、リリアナの心臓がトクン、と大きく跳ねた。
寝台の傍らに座っていたのは、人知を超えた美貌を持つ、銀髪の青年――アルヴィスだった。
「……アルヴィス、様……」
「そうだ。もう、お前を傷つけるものはここにはいない。あのような汚らわしい檻から、ようやくお前を救い出すことができた」
アルヴィスがリリアナの頬にそっと触れる。
その指先は、ギルバートのそれとは対極にある、魂を蕩けさせるような熱を持っていた。リリアナは反射的に身体を強張らせたが、アルヴィスの金色の瞳に宿る、狂おしいほどに深い慈しみを感じ取り、静かに力を抜いた。
「お前は、この数日間、あまりに酷い扱いを受けてきた。精霊の王として、お前が流した涙の数だけ、あの男たちに絶望を与えてやろうとも思ったが……。今は、お前の心を癒やすことが先決だ」
アルヴィスは傍らに置かれた白銀の杯を手に取り、リリアナの唇に寄せた。
「飲みなさい。精霊たちが、お前のために森の深淵から集めてきた、生命の雫だ」
促されるままに口に含んだそれは、花の蜜よりも甘く、染み渡るようにリリアナの身体を満たしていった。一口飲むごとに、身体の奥底に澱のように溜まっていた疲労と恐怖が、雪解けのように消えていく。
「……おいしい。私、こんなに美味しいものをいただいたのは、生まれて初めてです」
「そうだろうな。お前がこれまで『食事』と呼んでいたものは、ただの家畜の餌に等しいものだ。ここでは、お前が望むものすべてが、最高のかたちで与えられる」
リリアナは、ふと部屋の隅に目をやった。
そこには、あの小さな氷の精霊、ルルがいた。ルルは以前よりもずっと輝きを増し、仲間の精霊たちと楽しげに追いかけっこをしている。
「ルルも、ここに……」
「当たり前だ。お前を慕う者たちは、すべてこの城が受け入れる。……リリアナ、お前に一つだけ約束してほしい」
アルヴィスの表情が、わずかに真剣なものへと変わった。彼はリリアナの両手を、壊れ物を扱うように、しかし逃がさないという確固たる意志を込めて包み込んだ。
「もう二度と、あのような者たちのために歌ってはならない。お前の清らかな声は、世界で最も尊い宝だ。それを泥に投げ捨てるような真似は、私が許さない。……これからは、お前が歌いたい時に、私のためだけに歌えばいい。いいか?」
「……私、歌わなくても、ここにいていいのですか? 誰の役にも立たなくても、怒られませんか?」
リリアナの問いに、アルヴィスは悲しげに目を細めた。彼はリリアナをそのまま引き寄せ、広い胸の中に抱きしめた。
「役に立つ、立たないなどという言葉を、二度と口にするな。お前はただ、そこにいて息をしているだけで、私にとっては世界の半分以上の価値があるのだ。……お前が笑えば花が咲き、お前が眠れば夜が訪れる。それだけで十分なのだよ」
アルヴィスの腕の中から伝わる、力強い鼓動。
それは、リリアナがこれまで一度も触れたことのない、圧倒的な「肯定」だった。
実家では「不気味な呪い子」と呼ばれ、辺境では「便利な道具」として扱われてきた。自分の居場所は常に、誰かの役に立つことでしか得られない報酬だと思っていた。
けれど、この銀色の檻の中では、彼女はただのリリアナとして、宝石のように愛でられている。
窓の外では、精霊王の歓喜に呼応するように、何万という精霊たちが銀色の軌跡を描いて舞い踊っている。
一方で、リリアナを失った外界では、太陽さえも雲に隠れ、灰色の破滅が音を立てて忍び寄っていた。
「……私、ここで生きていてもいいのですね。アルヴィス様」
「生きるのではない。私に愛され、甘やかされるのだ。……さあ、リリアナ。今日はお前に、精霊たちが作った最高の庭を見せてあげよう。お前が一度も見たことのない、本物の色彩というものを」
アルヴィスはリリアナを抱き上げたまま、バルコニーへと足を踏み出した。
そこには、絶望の泥の中に沈んでいた彼女が決して見ることのできなかった、眩いばかりの光の世界が広がっていた。




