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第6話:銀色の聖域と、初めての体温


 深い、深い、水の底に沈んでいるような感覚だった。

 けれど、その水は冷たくはなかった。むしろ、生まれたばかりの陽光をそのまま溶かしたような、得も言われぬ温かさに満ちていた。

 泥の冷たさも、喉を焼くような痛みも、骨の髄まで凍りつかせた孤独も、すべてが遠い夢の彼方へと消えていく。


(……ああ、私……死んだのかしら……)


 リリアナは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

 視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど高く、透き通るような白銀の天井だった。天蓋からは極薄の絹が幾重にも垂れ下がり、窓の外からは、辺境の地では決してあり得ない、柔らかな鳥のさえずりと花の香りが流れ込んでくる。


 リリアナは上体を起こそうとして、自分の身体が驚くほど軽いことに気づいた。

 泥だらけだったドレスは脱がされ、代わりに、空気そのものを織り上げたような、しなやかで真っ白な寝衣に包まれている。触れるだけで指が滑るようなその生地は、彼女の肌を優しく、慈しむように包み込んでいた。


「目覚めたか、愛しき子よ」


 低く、甘く、鼓膜を震わせるような声。

 リリアナが視線を向けると、寝台の傍らに、あの銀色の髪を持つ青年が座っていた。

 陽光を浴びたその姿は、あまりに神々しく、この世の理から外れた美しさを放っている。金色の瞳は、深淵のような深みを持ちながらも、リリアナを見つめる時だけは、蕩けるような熱を帯びていた。


「……辺境伯様の、お城では……ないのですね。ここは……どこ……?」

「ここは、この世界の理が届かぬ場所。私の城だ」

 アルヴィス――この世界の魔力の源たる精霊王は、そう言ってリリアナの頬に手を添えた。


 リリアナは思わず肩を揺らした。ギルバートに触れられた時の、あの刺すような冷たさを思い出したからだ。

 だが、次に伝わってきたのは、魂の震えが止まるほどの圧倒的な安らぎだった。彼の指先からは、リリアナがこれまで歌に乗せて捧げてきた愛よりも、もっと深く、濃密な慈しみが流れ込んでくる。


「……あ、あったかい……」

「当然だ。私はお前のために、この場所のすべてを整えた。お前を傷つける冷気も、お前を道具として扱う無機質な意志も、ここには一切存在しない」


 アルヴィスは傍らに置かれた白銀の杯を手に取った。

「飲みなさい。精霊たちが、お前のために集めてきた生命の雫だ。お前の傷ついた喉も、枯れ果てていた心も、これですべて癒える」


 彼はリリアナをベッドから下ろそうともせず、自らスプーンを口元へ運んだ。

「……そんな、私なんかが、王様の手を煩わせるなんて……。私、自分でできますから……」

「駄目だ。お前はまだ、自分がどれほど尊い存在かを理解していないようだな」


 アルヴィスの言葉には、抗いがたい力と、圧倒的な独占欲が混ざり合っていた。

「お前がこれまで歌い続けてきたのは、この私のためだ。お前の歌声は、私が孤独であった数千年の時を繋ぐ、唯一の光だったのだからな。……さあ、口を開けなさい。これは命令ではなく、私の願いだ」


 促されるままに口に含んだ雫は、花の蜜よりも甘く、染み渡るようにリリアナの身体を満たしていった。一口飲むごとに、喉の違和感が消え、心の奥底で凍りついていた何かが、静かに解けていく。


 その時、リリアナの周囲に小さな光の粒が次々と現れた。

 それらは、辺境の地で彼女を案じていた精霊たちだった。ルルもいた。以前よりもずっと輝きを増し、活き活きとした様子でリリアナの周りを飛び跳ねている。


「ルル……! よかった、あなたも無事だったのね」

 リリアナが指を差し出すと、ルルは嬉しそうにその指先にキスをした。

 精霊たちがこれほどまでに自由に、幸福そうに舞っている姿を、リリアナは初めて見た。ここには、彼らを捕らえようとする香料も、彼らを無視する無関心もない。


「お前がそうして笑うだけで、世界は調和を取り戻す。……だが、リリアナ。お前をあのように扱った者たちを、私は許しはしない」

 アルヴィスの瞳が、一瞬だけ、凍てつくような冷徹な光を放った。


「私が、我が半身であるお前を連れ去ったことで、あの地は精霊の加護を完全に失った。今頃、あの男も、お前を嘲笑った女も、自分の愚かさを思い知っている頃だろう」

「……辺境伯様、たちは……?」

「案ずるな。死なせはしない。……ただ、精霊の愛を失った者がどのような地獄を見るか、たっぷりと味わわせるだけだ」


 アルヴィスは再びリリアナを優しく、しかし力強く抱き寄せた。

 彼の胸に顔を埋めると、リリアナは生まれて初めて「ここにいてもいい」という確信を得た気がした。

 これまでは、歌うことでしか自分の価値を証明できなかった。

 これまでは、耐えることでしか自分の居場所を確保できなかった。


 けれど、この腕の中では、ただ息をしているだけで「愛している」と言われているような、過保護なまでの熱を感じる。


「……ねえ、アルヴィス様。私、もう歌わなくてもいいのですか?」

「ああ。歌いたくなれば、私のためにだけ歌えばいい。だが、働かされる必要はない。お前はただ、私の隣で、この庭を彩る花のように笑っていればいいのだ」


 リリアナの目から、今度は悲しみではない、温かな涙が零れ落ちた。

 それはアルヴィスの指によって掬い取られ、一粒の輝く宝石となって彼の掌に残った。


「泣くのも、今日が最後だ。……お前の人生から、『悲しみ』という概念を消し去ってやろう」


 精霊王の囁きは、甘い呪文のようにリリアナの意識を溶かしていく。

 窓の外では、王の歓喜に呼応するように、何千、何万という精霊たちが銀色の歌を奏で始めていた。

 それは、虐げられた少女の「無」の日常が終わり、神にも等しい存在に愛でられる、永遠の楽園の始まりだった。


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