第5話:泥に塗れた再会と、銀の守護
その日は、朝から空が低く垂れ込め、嫌な予感だけが城内を支配していた。
リリアナがいつものように喉を痛めて祭壇へ向かおうとした時、城の正門から響いたのは、この地には不釣り合いな軽やかな鐘の音だった。
現れたのは、見上げるほど豪華な白銀の馬車。そして、そこから降り立ったのは、春の陽光をそのまま纏ったような華やかなドレスに身を包んだ異母妹、フェリシアだった。
「まあ! お姉様、なんて無様なお姿ですの!」
フェリシアは、リリアナのやつれ切った頬と、泥に汚れた裾を見るなり、扇で口元を隠して高笑いした。彼女の背後には、侯爵家から連れてきた侍女たちが並び、同じように嘲るような視線をリリアナへ投げかける。
「フェリシア……どうして、ここへ……」
「お父様に言われて、様子を見に来て差し上げましたのよ。お姉様が辺境伯様にご迷惑をかけていないか、心配で夜も眠れませんでしたの」
嘘だ。彼女の瞳には、自分よりも下の存在を確認し、優越感に浸る愉悦だけが輝いている。
そこへ、館からギルバートが姿を現した。彼はリリアナに向けるものとは一変し、最低限の礼節を持ってフェリシアを迎え入れた。
「ようこそ、聖女殿。貴女の来訪を歓迎しよう」
「辺境伯様、お初にお目にかかりますわ。……それにしても、お姉様は相変わらず不器味な精霊ばかり集めて。聖女である私が、この庭を真に清めて差し上げますわね」
フェリシアは、リリアナが毎日、喉を枯らして歌い、ようやく数羽の小さな精霊たちが休むようになった中庭へと歩み寄った。そこには、リリアナが「ルル」と呼んで大切にしていた氷の精霊の幼子もいた。
「やめて、フェリシア! そこには、ようやく心を開いてくれた子たちが……!」
「黙っていらして、お姉様。偽りの歌声で呼び寄せた精霊など、私の香料で追い払ってあげますわ」
フェリシアが懐から取り出したのは、刺激の強い「誘引の香」だった。彼女がそれを振り撒くと、中庭の穏やかな空気は一変した。
無理やり魔力を引き出す香の煙に、小さな精霊たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。ルルが苦しげに光を点滅させ、リリアナの方へ逃げようとしたその時、フェリシアの靴がルルのいた空間を無慈悲に踏み抜いた。
「ああ、目障りな虫ね。……あら、何かおっしゃいました?」
フェリシアはわざとらしく小首を傾げた。
リリアナの心の中で、何かが音を立てて切れた。
「離れて! その子たちを傷つけないで!」
リリアナがフェリシアの腕を掴もうとした、その瞬間。
ギルバートの冷たい声が、鋭く彼女を射抜いた。
「……何をしている、リリアナ」
彼はリリアナの手を乱暴に振り払い、彼女を力任せに突き飛ばした。
「あ……っ!」
無防備な体は、降り出した雨でぬかるんだ泥の中へと倒れ伏した。冷たい泥水が、顔や髪、そしてボロボロになったドレスを汚していく。
「聖女殿の浄化を邪魔するとは。貴様、自分の立場を忘れたか。道具なら道具らしく、隅で泥を舐めていろ」
ギルバートの視線には、リリアナを人間として案ずる色は微塵もない。あるのは、計画を乱されたことへの不快感だけだ。
フェリシアは泥にまみれた姉を見下ろし、この世で最も汚いものを見るような目で微笑んだ。
「お似合いですわよ、お姉様。泥の中で不気味な歌でも歌っていればよろしいわ。……さあ、辺境伯様。中でお茶をいただきましょう? 汚らわしいものを見ると、目が腐ってしまいますわ」
二人は笑い声を残し、リリアナを放置したまま温かな館へと戻っていった。
冷たい雨が容赦なくリリアナを叩く。泥の中に沈んだ指先は感覚を失い、喉からはもう、掠れた声さえ出ない。
(……ああ、やっぱり……。私の居場所なんて、世界のどこにも……)
リリアナは泥の中に顔を埋め、ただ震えていた。
愛されたいわけではなかった。ただ、一人の人間として、生きていてもいいと誰かに言ってほしかっただけなのに。
精霊たちの光も消え、世界は完全な灰色に塗り潰された。
その時だった。
ピチャリ、という雨音が、不自然に止まった。
降り続いていたはずの雨が、リリアナの周りだけ、目に見えない傘があるかのように避けられている。
「……お前を汚したのは、どいつだ?」
空気を裂くような静寂の中に、あの銀色の声が響いた。
第4話で聞いた、人知を超えた美貌を予感させる、低く甘い声。
泥だらけの視界に、銀色の糸のような髪が揺れた。リリアナが顔を上げると、そこには、この不毛な大地には存在するはずのない、神秘的な輝きを纏った青年が立っていた。
「……だ、れ……?」
「ようやく、まともに呼んでくれたな。愛しき我が子よ」
青年――アルヴィスは、泥に汚れることなど一切厭わず、リリアナの前に膝をついた。
彼が指先で彼女の頬を撫でると、付着していた泥が、キラキラとした光の粒に変わって消えていく。
「お前を泣かせたあの男の首も、お前を嘲笑った女の舌も、すべて私が引き抜いてやろうか。……それとも、この地ごと、永遠の氷に閉じ込めてやろうか?」
その瞳は、深淵のような金色。
そこには、リリアナを傷つけた者たちへの、底知れぬ怒りと殺意が渦巻いていた。
けれど、リリアナを見つめる時だけは、その瞳は溶けた蜜のように甘く、狂おしいほどの執着を孕んでいる。
「……だめ……。そんなこと……しちゃ、だめ……」
「くく……。これほど無残に扱われても、まだ他人を案ずるか。……だが、それも今日までだ」
アルヴィスはリリアナの細い体を、壊れ物を扱うように優しく、しかし逃がさないという確固たる意志を込めて抱き上げた。
彼の胸から伝わるのは、ギルバートの冷たさとは対極にある、魂が痺れるような圧倒的な熱。
「私の前だけで歌え。私のためだけに微笑め。……リリアナ、お前をこの汚らわしい檻から連れ去りに来た」
銀色の光が爆発するように広がり、リリアナの意識は、温かな抱擁の中で深い闇へと落ちていった。
それは絶望の終わりであり、人知を超えた愛による、救済の始まりだった。




