第4話:凍てつく食事会と、闇に差す銀の光
視界が、熱に浮かされたように小刻みに揺れていた。
連日の奉納は、リリアナの細い身体を容赦なく削り取っていた。喉は焼けつくように熱く、呼吸をするたびに肺の奥がひりつく。だが、鏡の中に映る自分の顔は、死人のように青白く、生気がなかった。
「……様。リリアナ様、起きておいでですか」
部屋の扉が開き、以前よりもさらに横柄な態度になった侍女が入ってきた。彼女はリリアナの顔色の悪さを一目見るなり、あからさまに面倒そうな溜息をついた。
「辺境伯様がお呼びです。今宵は家臣の方々を招いての食事会。婚約者として、相応しい姿で広間へ降りてくるように、とのことです」
「……食事会、ですか? ですが、今日はまだ祭壇での……」
「辺境伯様のお言葉は絶対です。貴女の体調など、誰も興味はありません。さあ、早くこのドレスに着替えなさい。これは、辺境伯様が選ばれたものですわ」
差し出されたのは、夜の闇を溶かし込んだような、重苦しい黒のドレスだった。
王都の流行からは外れた、どこか儀式的な冷たさを感じさせる意匠。それを身に纏うリリアナは、まるで葬送の列に並ぶ犠牲者のようだった。
ふらつく足取りで案内された広間には、無骨な鎧を纏った騎士や、欲深そうな家臣たちが居並んでいた。暖炉には火が焚かれているはずなのに、リリアナが中へ一歩踏み出した途端、そこは氷の穴蔵のように感じられた。
精霊たちが、この場所に満ちた「濁り」を嫌って、一斉に気配を消したからだ。
「遅かったな。こちらへ来い」
上座に座るギルバートが、短く命じた。
リリアナは彼の手招きに従い、その隣に座る。ギルバートは彼女の手を取り、家臣たちに向けて掲げて見せた。その仕草は、最愛の女性を紹介するものではなく、戦利品の剣の銘を見せびらかすような、残酷な誇示だった。
「諸君、紹介しよう。王都から我が領地へ贈られた、新たな動力源だ」
動力源。
その言葉に、家臣たちからどっと野卑な笑いが漏れる。
「ほう、これが噂の……。随分と華奢ですが、本当にこの不毛な地に緑を呼び戻せるのですか?」
「見たところ、魔力というよりは、ただの病人のようですが」
交わされる言葉の端々に、リリアナを人間として尊重する響きは欠片もなかった。
ギルバートは、リリアナの腰に、これ見よがしに手を回した。
その瞬間、リリアナは身体を強張らせた。厚いドレスの生地越しだというのに、彼の掌から伝わる冷気は、彼女の魂を直接凍らせようとするかのように鋭かった。精霊たちが彼女の耳元で「逃げて、逃げて」と、か細い羽音を立てて泣いている。
「案ずるな。こいつの喉には、まだ利用価値がある。……さあ、リリアナ。諸君にその『奇跡』を見せてやれ。今この場所で、精霊を呼び寄せる歌を歌え」
「……今、ここでですか? ……このような、殺風景な場所では……精霊たちが……」
「命令だ。できないとは言わせん」
ギルバートの指が、リリアナの細い腰を強く締め上げる。それは明白な「警告」だった。
リリアナは震える唇を開き、渇いた喉を無理やり震わせた。
「――♪ ……深き森の……ささやき、風の……ゆりかご……」
歌い出した瞬間、喉から血の味がした。
それでもリリアナは歌い続けた。そうしなければ、この冷酷な男の手が、もっと自分を壊してしまうと予感したからだ。
リリアナの歌に惹かれ、僅かな光が空中に現れた。それを見た家臣たちは、歓声を上げ、物珍しそうに光の粒を指差し、あるいは捕まえようと乱暴に手を振った。
精霊たちは悲鳴を上げ、散り散りになる。
リリアナの意識は、その喧騒の中で急速に遠のいていった。
歌が終わると同時に、彼女は糸の切れた人形のように椅子から崩れ落ちそうになった。それを支えたギルバートは、心配するどころか、鼻を鳴らして彼女を突き放した。
「無様に倒れるな。興が削がれる。……侍女、こいつを部屋に運べ。明日の朝までには、喉を整えておけよ。一刻も早く、北の祭壇を浄化させねばならんのだからな」
冷たい床に膝をつくリリアナを置いて、男たちは酒杯を重ね、笑い声を上げた。
リリアナは、引きずられるようにして自室へと戻された。
闇に包まれた部屋。暖房も与えられず、彼女はベッドの上で丸まり、ガチガチと歯を鳴らした。
喉は腫れ上がり、もう声も出ない。
(……もう、いいかな。……もう、頑張れないよ……)
そう思ったときだった。
窓の隙間から、ひらりと、一枚の銀の羽根のような光が舞い込んできた。
ルルではない。それは、この地に満ちる灰色の冷気とは正反対の、圧倒的な熱量を秘めた、銀色の輝き。
その光が、リリアナの額にそっと触れた。
まるで、世界で最も高価な絹で撫でられたかのような、至高の心地よさ。
『……愛しき子よ……。もう少しだ……。その涙を……私がすべて、飲み干してやる……』
耳元で響いたのは、この世のものとは思えないほど美しく、そして背筋が凍るほど傲慢な、男の声だった。
それは幻覚だったのかもしれない。あまりの苦しみに、心が作り出した夢だったのかもしれない。
けれど、その声に触れられた瞬間、リリアナの喉の痛みは嘘のように引き、身体を包んでいた死の冷気は、柔らかな微睡みへと変わっていった。
「……だれ……? だれなの……?」
リリアナは問いかけようとしたが、重い瞼はそのまま閉じてしまった。
銀色の光は、彼女の枕元でしばらくの間、愛おしそうに、あるいは彼女を傷つけた世界への殺意を込めるようにして、強く、強く明滅していた。
翌朝。
リリアナが目を覚ましたとき、昨夜の銀の光はどこにもなかった。
熱は引き、声も出るようになっていたが、彼女の心に灯っていた小さな火は、もう消えかかっていた。
彼女は鏡も見ず、ただ淡々と、再び自分を壊しに来るであろう侍女の足音を待っていた。




