第3話:枯れた祭壇と呪いの言葉
翌朝、リリアナを待っていたのは、慈悲のない冬の嵐のような目覚めだった。
扉を蹴破らんばかりの勢いで入ってきた騎士に促され、満足な身支度も整わぬまま、彼女は城の北側に位置する断崖へと連行された。
そこには、かつて精霊を祀っていたとされる古い石造りの祭壇があった。
しかし、今のその場所には聖性など微塵も感じられない。吹き付ける風は刃のように鋭く、剥き出しの岩肌は死者の骨のように白く乾いている。精霊が住まうはずの森も、遠くから見れば黒い染みのようで、生命の輝きを一切拒絶しているようだった。
「ここで歌え。日没までだ」
祭壇の影から現れたギルバートの声には、霜が降りていた。
彼は厚手の毛皮に身を包み、寒さなど感じていないかのように凛と立っている。一方で、薄い外套一枚しか与えられていないリリアナは、立っていることさえやっとだった。
「……辺境伯様、ここはあまりに冷え切っています。精霊たちも、怯えて身を隠して……」
「黙れ。不平を言うために、王都からここまで運ばれてきたのか?」
ギルバートは一歩、リリアナに近づいた。
彼が近づくたびに、リリアナの視界にあるはずの微かな色彩が、墨を流したように塗り潰されていく。彼という存在そのものが、精霊たちの愛する『世界の調和』を食い破る異物なのだ。
「いいか。この土地には精霊の加護が足りない。だから作物が育たず、民が飢える。お前は、その不足を補うための道具だ。蛇口を捻れば水が出るように、お前が歌えば精霊が集まる。それ以外の結果は求めていない」
リリアナは唇を噛んだ。
蛇口。道具。
彼はリリアナを、意志を持つ人間としてではなく、ただの便利な現象を引き起こすための、摩耗しても構わない装置として扱っていた。
「……わかりました」
震える足で祭壇の中央に立ち、リリアナは深く息を吸った。
冷たい空気が肺を焼き、喉を切り裂くような痛みが走る。それでも彼女は、空に向かって声を解き放った。
「――♪ 天なる光、地の底に眠る静寂……どうか、この凍てつく世界を赦して……」
それは、厳かな賛美歌。
リリアナの歌声が響き渡ると、死んでいたはずの祭壇に、ポツリ、ポツリと光の粒が戻り始めた。彼女の清らかな魔力に惹かれ、隠れていた精霊たちが恐る恐る姿を現したのだ。
しかし、彼らはリリアナの足元に縋り付くように集まるだけで、ギルバートの方へは決して行こうとしない。
「何を遊んでいる。もっと広範囲に、精霊を力ずくで引き寄せろ」
「……そんなこと、できません。精霊たちは、無理に縛られるのを嫌います。彼らの心に寄り添わなければ……」
「寄り添うだと? 愚らわしい」
ギルバートは鼻で笑い、彼女の側まで歩み寄ると、有無を言わさぬ力でリリアナの顎を掴み上げた。
その瞬間、リリアナの背筋に、氷柱を突き立てられたような不快な衝撃が走った。
彼の指先からは、生命への慈しみなど微塵も感じられない、ただ「支配」と「渇望」だけが混ざり合った、歪な波動が伝わってくる。
「いいか、リリアナ。お前の意思などどうでもいい。私の望む魔力濃度に、この場の空気を染め上げろ。お前が喉を潰そうが、心が壊れようが、知ったことではない。成果が出ないというのなら、お前に与える価値は、この石畳以下だ」
彼の冷たい視線が、リリアナの瞳の奥までを貫く。
リリアナは言葉を失い、ただ浅い呼吸を繰り返した。彼女の周囲で寄り添っていた精霊たちが、ギルバートのあまりの強欲さに耐えかね、ガラスが割れるような音を立てて霧散していく。
その光景すら、ギルバートには見えていない。彼に見えているのは、ただ自分の領地を潤すための「効率」という名の幻影だけなのだ。
日没を迎え、ようやく解放されたリリアナは、石のような冷たさになった体を引きずって部屋に戻された。
暖炉に火もなく、与えられたのは硬いパンと、温もりのない薄いスープだけ。
ベッドに倒れ込むように横たわると、シーツの隙間から、昨日の小さな精霊――ルルが顔を出した。
「……ルル。怖かったわね、ごめんなさい」
リリアナは掠れた声でささやき、ルルを自分の頬に寄せた。
ルルは彼女の悲しみを感じ取ったのか、ひんやりとした光を放ちながら、リリアナの腫れ上がった喉を労わるように優しく撫でる。
窓の外では、絶え間なく吹雪が鳴り響いている。
ここは、誰も救ってくれない場所。自分を「人間」として愛してくれる者など一人もいない、氷の檻。
リリアナはルルを抱きしめたまま、静かに目を閉じた。
彼女の脳裏には、今日、あの冷酷な男に触れられた瞬間の、吐き気を催すような冷たさが、消えない痣のように焼き付いていた。
(……それでも、私は歌わなきゃ。私が歌うのを止めたら、この子たちまで、あの冷たい闇に飲み込まれてしまう……)
絶望に塗り潰されそうな心に、リリアナは必死で小さな火を灯し続ける。
けれど、彼女はまだ知らなかった。
この孤独な祈りの声が、人知を超えた深淵に住まう、真の「王」にまで届き始めていることを。




