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第2話:氷の領地と冷酷な眼差し

 揺れる馬車の中で、リリアナは何度目かの溜息を飲み込んだ。

 王都を出発してから三日が経過していた。車窓から見える景色は、日を追うごとにその色彩を失い、今はただ、果てしなく続く灰色の荒野と、深く立ち込める霧に覆われている。


 何よりリリアナを不安にさせたのは、精霊たちの気配が、目に見えて薄くなっていることだった。

 王都ではどこにでも漂っていた光の粒が、ここでは数えるほどしか見当たらない。時折、風に流されるようにして現れる精霊も、その輝きは弱々しく、何かに怯えるようにしてすぐに消えてしまう。


(この土地は、精霊たちに拒まれている……?)


 そう予感したとき、馬車が大きく揺れて止まった。

「リリアナ様、到着いたしました。降りてください」

 御者の無機質な声に促され、リリアナは重い扉を開ける。


 目の前に現れたのは、黒ずんだ石造りの巨大な城だった。

 ラドクリフ辺境伯城。それは装飾を一切削ぎ落とした、峻厳な要塞のような佇まいをしていた。見上げる空は厚い雲に閉ざされ、地を這うような冷気がリリアナの薄いドレスを容易に通り抜け、肌を刺す。


「……あなたが、リリアナ・エル・ローゼか」


 低く、地響きのような声が響いた。

 城の重厚な門の前に、一人の男が立っていた。

 ギルバート・フォン・ラドクリフ。辺境伯であり、今日からリリアナの婚約者となる男。

 整った顔立ちは、彫刻のように冷たく、完璧だった。しかし、その瞳には感情という光が一切宿っていない。


 リリアナが歩み寄ろうとした瞬間、彼女の耳の奥で、甲高い不協和音が鳴り響いた。

(……っ!?)

 それは、彼女の周囲にわずかに残っていた精霊たちが、恐怖に震えて発した悲鳴だった。

 ギルバートが纏っている気配は、あまりに冷酷で、生命の温もりを一切受け付けない「虚無」そのものだった。精霊たちは、彼を「触れてはならない断絶」として認識しているのだ。


「リリアナ・エル・ローゼです。お初にお目にかかります、辺境伯様」

 震える声を抑え、リリアナは深く膝を折って礼をした。

 だが、ギルバートは彼女の挨拶を無視し、無遠慮な視線で彼女の頭からつま先までを凝視した。それは女性を見る目ではなく、市場に並んだ家畜の質を確かめるような、冷淡極まりない視線だった。


「……期待外れだな。侯爵家の厄介者とは聞いていたが、これほど細く、弱々しいとは」

 ギルバートは吐き捨てるように言った。

「精霊を呼び寄せる触媒として、どれだけの期間持つか。せめて三ヶ月は使い物になってもらわねば困る。この土地の不毛を解消するために、お前は買い取られたのだからな」


 買い取られた。

 その言葉が、リリアナの胸に冷たい楔となって打ち込まれる。

「私は……私は、あなたと家族になるために参りました。触媒としてではなく……」

「黙れ。そのような夢想は、王都の甘い温室に置いてくるべきだったな」


 ギルバートが一歩、距離を詰める。

 彼が近づくだけで、周囲の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥る。

「この地では、祈りも愛も腹の足しにはならん。あるのは生存か、死かだ。お前に与えられた役割は、その喉を鳴らして精霊をこの地に縛り付けること。それ以外に、お前が存在する価値はない」


 そう言うと、彼はリリアナの手首を乱暴に掴もうとした。

 その指先が触れる直前、リリアナの全身を凄まじい悪寒が走った。内臓を氷で撫で回されるような、本能的な拒絶。

「あ……っ!」

 思わず身を引いた彼女の反応に、ギルバートの眉が不快そうに跳ねる。


「私の手に触れるのも汚らわしいというのか。身の程をわきまえろ、呪い子」

「いえ、そうではなくて……! その、空気が、とても冷たくて……」

「言い訳は無用だ。案内しろ」


 ギルバートは背を向け、大股で城の中へと入っていく。

 案内された部屋は、城の最上階に近い一室だった。広さは十分だが、家具はどれも角ばっていて、色彩がない。窓は厚い鉄格子で補強され、外の景色はほとんど見えなかった。


「今日からここが貴様の檻だ。逃げ出そうなどとは考えるな。この周囲の森には魔物が溢れている。私に断りなく外へ出れば、精霊に食われる前に魔物の餌食になるだけだ」

 ギルバートは扉に手をかけ、最後に冷たく言い放った。

「食事は運ばせる。だが、働かぬ者に贅沢な食事は与えん。明日から、北の枯れ果てた祭壇で歌え。精霊が集まらなければ、それ相応の扱いを覚悟しておくことだ」


 重い扉が閉まり、鍵のかかる嫌な音が響いた。

 静寂が、冷たい水のように部屋を満たしていく。

 リリアナは力なく床に座り込んだ。

 王都での生活も孤独だったが、ここでは「存在」そのものを否定されている。ギルバートにとって、自分はただの便利な道具――それも、いつ壊れても代わりがいる程度の、安価な道具なのだ。


(寒い……すごく、寒い……)


 リリアナは自分の肩を抱き、震えを堪えた。

 そのとき、窓の小さな隙間から、ひらひらと一つの光の欠片が舞い込んできた。

 それは、これまで見たどんな精霊よりも小さく、透明に近い、氷の精霊の幼子だった。


 その子はリリアナの頬にそっと触れると、消え入りそうな声で「さびしい」とささやいた気がした。

 この不毛な地で、精霊たちもまた、凍えながら誰かの温もりを待っていたのだ。


「……大丈夫。一人にしないわ。私も、あなたも」


 リリアナは指先を丸め、その小さな光を包み込むようにして胸に抱いた。

 彼女の目から一粒の涙が零れ、精霊の光に触れて真珠のように輝く。


 地獄のような日々が始まることは、容易に想像がついた。

 けれど、リリアナは知っていた。どんなに凍てついた大地の下でも、春を待つ種は死なないことを。

 彼女は暗い部屋の中で、自分を鼓舞するように、小さな、本当に小さな声で、明日のための子守唄を口ずさみ始めた。


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