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第1話:屋根裏部屋の歌い手

 夜明けの光が、埃の舞う小さな部屋に差し込んでくる。

 侯爵家の北側に位置する古い塔。その最上階にある屋根裏部屋が、リリアナに与えられた唯一の居場所だった。


 リリアナ・エル・ローゼは、硬い寝台の上でゆっくりと目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、朝露のように光り輝く無数の粒だ。それは人々の目には見えない存在――精霊たちが、彼女の目覚めを祝福して舞っている姿だった。


「……おはよう。みんな、今日も綺麗ね」


 リリアナが小さく微笑み、細い指先を空に伸ばす。

 すると、光の粒たちは嬉しそうに羽ばたき、彼女の指先に触れては柔らかな色彩を放った。あるものは淡い琥珀色、あるものは透き通るような水色。リリアナにとって、この世界は常に精霊たちの彩りで満ち溢れている。


 しかし、その光景を共有できる者は、この広い館のどこにもいなかった。


 リリアナは使い込まれた簡素なドレスを身に纏うと、窓際に置かれた一つの鉢植えに歩み寄った。それは数年前、庭師が「もう枯れるから」と捨てようとしていた名もなき野花だ。

 彼女はそっと鉢に手を添え、喉の奥から清らかな音を紡ぎ出す。


「――♪ ……優しき土の眠りよ。風のささやきを聞き、朝の雫を分け合いましょう……」


 それは、精霊たちに語りかけるような、優しく穏やかな子守唄。

 リリアナが歌い始めると、部屋中に漂っていた光の粒が一箇所に集まり、しおれかけていた茎を包み込んでいく。茶色く変色しかけていた葉が、目に見えて青々とした輝きを取り戻し、小さな蕾がぷっくりと膨らんだ。


 これこそが、リリアナの持つ「愛し子」の力。

 彼女はただ歌うだけで、精霊たちと心を通わせ、その恩恵を授かることができた。だが、その力の真価を理解する者はいない。この世界において、精霊は儀式によって強引に呼び出し、契約によって縛り付ける「資源」であると考えられていたからだ。


 バタン、と乱暴に扉が開かれた。


「いつまで寝ているのですか、不気味な歌を歌って。早く降りてきなさい」


 現れたのは、リリアナの身の回りの世話――という名目で監視をしている年配の侍女だった。彼女の瞳には、リリアナに対する明らかな蔑みが宿っている。

 侍女の目には、リリアナが何もない空間に向かって独り言を呟き、枯れかけた雑草を大切に育てる、頭の狂った娘にしか見えていないのだ。


「……申し訳ありません。すぐに行きます」


 リリアナが静かに頭を下げると、侍女は「ふん」と鼻を鳴らして去っていった。

 彼女が通り過ぎた後には、精霊たちが嫌悪感を示して逃げ出し、空気の中に淀んだ灰色の気配だけが残る。リリアナはその冷たさに身を震わせながら、大切に育てた鉢植えに別れを告げ、部屋を後にした。


 本館へと続く長い廊下を歩く間も、リリアナの心は重かった。

 豪華な絨毯が敷かれ、壁には名画が飾られた廊下。しかし、リリアナの目には、そこはひどく荒廃した景色に映る。人々の欲念や傲慢さが渦巻くこの館では、精霊たちは常に怯え、その姿を隠していた。


 一階のホールに差し掛かった時、前方に華やかな一団が見えた。


「お姉様、おはようございます。今日も相変わらず、地味な格好をなさっているのね」


 鈴を転がすような、わざとらしいほどに愛らしい声。

 そこに立っていたのは、リリアナの異母妹であり、侯爵家の至宝とされるフェリシアだった。彼女の周りには、無理やり焚かれた香料の煙に引き寄せられた精霊たちが、苦しげに滞留している。

 精霊の言葉を聞けない人々は、その歪な光景を見て「聖女の加護だ」と称賛していた。


「おはよう、フェリシア。今日も美しいわね」


 リリアナが穏やかに返すと、フェリシアは嘲笑うように口角を上げた。

 フェリシアにとって、姉であるリリアナは自分の引き立て役に過ぎない。精霊の加護を持たず、呪われたように不気味な歌を歌う、一族の汚点。


「お姉様に朗報を教えてあげますわ。お父様が、ようやくあなたの処遇をお決めになったの。あの『氷の死神』と恐れられる辺境伯様との婚約が決まりましたのよ。お似合いですわね、呪われた娘には、魔物の住まう地がお似合いですもの」


 心臓がドクリと跳ねた。

 辺境伯――ギルバート・フォン・ラドクリフ。

 王国の北端、精霊の加護が届かぬと言われる極寒の地を治める若き当主。彼は冷酷非道で、戦に勝つためならば部下の命さえも何とも思わない男だという噂が絶えなかった。


「……辺境伯様、と……」


「そう。明日にはお迎えの馬車が来るわ。二度とこの館の敷居を跨がないよう、お父様も仰っていたわ。精霊様に愛されない哀れな娘として、せいぜい辺境で朽ち果ててちょうだい」


 フェリシアは勝ち誇ったように笑い、取り巻きの侍女たちを連れて去っていった。

 残されたリリアナの周囲には、彼女を心配するように小さな精霊たちが集まってきたが、その光さえも今の彼女には遠く感じられた。


 キッチンで冷え切った硬いパンを齧りながら、リリアナは窓の外を見つめた。

 空はどこまでも高く、澄んでいる。しかし、彼女を待ち受ける運命は、その空よりも冷たく過酷なものになるだろう。


 かつて母が教えてくれたことがあった。

『リリアナ、精霊たちは正直なのよ。彼らの声に耳を傾ける者にだけ、真実の道は開かれるわ』


 母を亡くしてから、誰にも心を開かず、ただ精霊と歌うことだけがリリアナの支えだった。

 明日、自分はこの場所から売られていく。

 リリアナを「人間」としてではなく、「厄介者」として送り出す家族たちの冷たい視線。

 そして、まだ見ぬ婚約者の、氷のような無関心。


(……それでも、いいの。どこへ行っても、私にはみんなの声が聞こえるから)


 リリアナは、精霊たちが奏でる小さな羽音に耳を澄ませた。

 不安で胸が締め付けられそうになりながらも、彼女は決して希望を捨てまいと、心の奥底で静かな誓いを立てる。


 その夜、屋根裏部屋に戻ったリリアナは、月明かりの下でもう一度だけ歌を歌った。

 それは今までになく、神聖で、どこか悲しげな賛美歌。

 彼女の歌声に引き寄せられるように、館中の精霊たちが屋根裏の窓の外に集まり、一晩中、銀色の光の輪を作っていた。


 翌朝、霧の中に黒塗りの馬車が現れる。

 それは彼女を、さらなる深い闇へと運ぶものか。あるいは、運命の出会いへと導くものか。


 リリアナは小さな手荷物だけを抱え、振り返ることなく、その馬車へと足を踏み出した。


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