第8話:色づく世界と、枯れゆく人々
精霊王の城に広がる庭園は、リリアナがこれまで抱いてきた「庭」という概念を、根本から覆すものだった。
見上げる空は、真珠の粉を撒いたような柔らかな光に満ちている。そこには太陽も月も存在しないが、常に心地よい温かさが満ち、吹き抜ける風はまるで花の蜜を溶かし込んだように甘い。
リリアナが一歩、その庭へと足を踏み出そうとすると、地面から小さな光の粒が湧き上がり、彼女の柔らかな足が痛まぬよう、瞬く間に白く瑞々しい花の絨毯を作り上げた。
「……信じられない。こんな、綺麗な場所が……」
リリアナの瞳に、初めて「生きた色彩」が映る。
王都の侯爵家では、すべてが他人の目を気にした虚飾の輝きだった。辺境伯領では、すべてが命を拒絶する死の灰色だった。
けれど、ここでは違う。
咲き誇る花々は、リリアナが通り過ぎるたびに嬉しそうに葉を揺らし、目に見えるほどの輝きを放ちながら、彼女を歓迎するような微かな音色を奏でている。精霊たちは透明な蝶のような姿となり、彼女の長い髪の周りを、宝石の鎖のように連なって舞っていた。
「お前にふさわしいのは、このような場所だ。泥も、埃も、冷酷な言葉も届かぬ、祝福された領域……」
背後から、アルヴィスの凛とした声が響く。
彼はリリアナの横に並び、その細い肩を抱き寄せた。アルヴィスが指をひと振りすると、空中に一輪の青いバラが姿を現す。それは氷の結晶のように透き通り、それでいて命の脈動を感じさせる不思議な花だった。
「これは、永遠に枯れることのない精霊の花。リリアナ、これを、お前のその美しい髪に飾らせてくれ」
「私なんかに、そんな貴重なものを……。アルヴィス様、私は……その、あまりこういう装いには慣れていなくて」
リリアナが伏せ目がちに躊躇うと、アルヴィスは困ったように、しかしどこまでも甘く微笑んだ。
「慣れていないのなら、私が今から一生をかけて慣れさせてやろう。お前が鏡を見るたびに、自分の美しさにため息をつくようになるまで、私は何度でも言い続けるぞ。お前こそが、この世で最も尊い、私の愛し子なのだと」
アルヴィスは丁寧に、宝石のように美しいバラを彼女の銀色の髪へと挿した。
そして、空中に水の鏡を作り出す。
そこに映っていたのは、かつての生気のない幽霊のような少女ではなかった。
アルヴィスの寵愛を受け、頬には薄桃色の赤みが差し、瞳には精霊の光を宿した、神々しいほどに美しい少女の姿だった。
「……これが、私……?」
「そうだ。これがお前の真の姿だ。……もう二度と、自分を卑下するような真似はするな。お前が自分を傷つければ、それは私の魂を傷つけるのと同じことなのだから」
アルヴィスは鏡を消すと、彼女を抱き上げ、木陰にある安楽椅子へと運んだ。
精霊たちが奏でる静かな調べ。何もしなくていい、ただ愛されるためだけに存在する時間。
リリアナの心の中に残っていた最後の手枷が、王の独占欲溢れる囁きによって、静かに、しかし確実に解けていった。
◇◇◇
その頃、リリアナがいたはずの「外界」では、文字通りの地獄が幕を開けていた。
王都にあるエル・ローゼ侯爵邸。
かつては精霊の加護を受け、一年中花が絶えないと謳われたその屋敷は、今や見る影もなかった。
「……っ、どういうことですの!? この不気味な霧は!」
フェリシアは、自分の寝室の窓を開けて叫んだ。
そこに見えるはずの美しい庭園は、一夜にして真っ黒な沼へと変わり果てていた。
フェリシアが「浄化」のために愛用していた高級な香料は、なぜか今日に限って、喉を焼き、目を見開くこともできないほどの悪臭を放つ毒煙へと変わっていた。
「お、お嬢様! 大変です、地下の食料庫が……! 昨日運び入れたばかりの果実が、すべて一瞬で煤のように腐り落ちました!」
侍女の悲鳴が館中に響き渡る。
それだけではない。侯爵家の富の象徴であった黄金の食器は煤け、壁に飾られた名画からは色が剥がれ落ち、まるで呪われた屋敷のようにすべてが急速に色褪せていく。
「リリアナ……あの女の仕業か!? あの不気味な女がいなくなってから、すべてがおかしくなった!」
エル・ローゼ侯爵は、荒れ果てた執務室で歯を剥き出しにした。
彼は気づいていなかった。いや、気づきたくなかったのだ。
自分が「汚点」として屋根裏に閉じ込めていたリリアナこそが、侯爵家の汚れをすべてその身に受け止め、無意識のうちに浄化し続けていた聖域そのものであったことを。
彼女を「呪い子」として追い出した瞬間、侯爵家がこれまで積み上げてきた欺瞞と穢れが、一気に噴出したのである。
◇◇◇
そして、辺境伯領――。
そこにあるのは、侯爵邸のような混乱ではなく、もっと静かで、、逃れようのない「死」の気配だった。
「リリアナを見つけろと言ったはずだ! まだ足取りすら掴めんのか!」
ギルバートの怒鳴り声に、騎士たちは震え上がった。
彼らの周囲では、常に耳障りな「不協和音」が鳴り響いている。精霊たちが一斉にこの土地を呪い始め、あらゆる加護が消失した結果、領地内の井戸水は腐り、冬の寒さは石を割るほどの鋭さで人々の命を奪い始めていた。
ギルバートは、リリアナがいなくなった離れの部屋に立ち、残された銀色の焦げ跡を見つめていた。
彼の中にあったのは、後悔ではない。
「私の所有物を、勝手に持ち去る者がいるとは……」
歪んだ独占欲と、プライドを傷つけられたことへの狂信的な怒り。
彼は知っていた。この森の奥には、人間が踏み込んではならない「禁域」があることを。
リリアナを救い出した「何か」がそこにいるのなら、力ずくで奪い返す。
彼にとって、リリアナは依然として、自分を潤すための「道具」でしかなかった。
「……用意しろ。全軍を持って、森へ侵攻する」
精霊の怒りに気づかず、自らの破滅へと歩みを進める愚か者たち。
そんな者たちの存在など、精霊王の城には微塵も届かない。
◇◇◇
リリアナは、アルヴィスの膝の上で、心地よい眠りに誘われていた。
彼の大きな掌が、彼女の背中を規則正しく撫でる。そのリズムは、世界で最も甘い、眠りの呪文。
「……あ、あるびす……さま……」
「ここにいる。お前の隣、いや、お前のすべては、私が守っている」
アルヴィスは、眠りについたリリアナの額に、慈しむようにキスを落とした。
そして、窓の外――外界へと向けられたその瞳には、万物を滅ぼしかねないほどの、冷酷な黄金の光が宿る。
「……まだ、あのような醜い連中がお前を求めているのか。……面白い。お前を道具と呼んだ者たちが、どこまで無惨に散っていくか。その特等席を用意してやろう、愛しき子よ」
王の囁きは、甘い愛の言葉でありながら、世界を終わらせる死神の宣告でもあった。
リリアナの夢の中には、もう、冷たい泥の感触も、ギルバートの凍てつく声も現れない。
ただ、銀色の光と、自分を過保護に愛でる王の温もりだけが、彼女のすべてを塗り替えていく。




