第30話:聖域の平穏、ただ一人の伴侶として
世界の理が書き換えられ、万物が色彩の女王リリアナの祝詞によって再編されてから、城を囲む聖域には、かつてないほどに深く、濃密な「安らぎ」が満ちていた。
外界の崩壊によって生じていた微かなノイズは完全に消失し、いまや地平の果てまで、リリアナの幸福な情動に呼応して芽吹いた極彩色の楽園が広がっている。人間という種がもたらしていた「悪意」や「欲」といった濁りは、いまや精霊たちの奏でる純粋な音色にかき消され、世界は神代の静謐を取り戻したのである。
城の最奥、春の陽光のような柔らかな魔力が満ちる寝所。
リリアナがゆっくりと瞼を持ち上げると、視界は極薄の絹越しに差し込む琥珀色の光で埋め尽くされていた。彼女が目覚める瞬間の微かな喜びを察知し、枕元に置かれた精霊石の器からは、リリアナの好む清らかな花の香りが一斉に立ち上る。
(……ああ。……本当に、もう、何も怖くないのね)
リリアナは、寝具の柔らかな感触を肌で確かめながら、静かに息を吐いた。
かつての彼女にとって、朝は「絶望の始まり」を告げる残酷な光でしかなかった。屋根裏の冷たい床、侍女の罵声、そして婚約者の冷酷な視線。それらはもはや、何千年も前の、誰か他の人間が経験したお伽話のように遠い。
今の彼女にあるのは、内側から溢れ出す、アルヴィスと同じ「真名」の熱量。そして、自分をこの世界で最も尊い宝物として扱う、王の深い執着だけ。
「目覚めたか、私の愛しき女王よ」
背後から、リリアナの細い腰を逃さぬように、しかし壊れ物を扱うような繊細さで抱きしめる腕があった。
アルヴィスは、リリアナの銀色の髪に顔を埋め、深く、深く、その魂の香りを吸い込んだ。彼の黄金の瞳には、外界を消滅させ、不純物を一掃したことで得られた、歪なまでの充足感が宿っている。
「アルヴィス様。……また、私を抱きしめたまま寝ていらしたのですか?」
「当然だ。お前が目覚める瞬間の喜びを、一秒たりとも逃したくない。……お前が人間であった頃、どれほどの『不自由』を強いられてきたかを知っているからこそ、私はお前のすべての時間を、私の寵愛だけで埋め尽くしたいのだよ」
アルヴィスはリリアナを膝の上に抱き上げると、そのまま、窓の外に広がる新生した世界を見渡せる長椅子へと運んだ。
そこには、かつての「義務」としての奉納も、喉を枯らしてまで強いられた浄化の歌も、もう存在しない。あるのは、ただ愛されるためだけに存在する女王と、その女王に跪く王の、完成された二人のための世界。
「リリアナ、今日はお前に、人間であった頃には叶わなかった『些細な願い』をすべて叶えさせてやろう。……お前がかつて夢に見たこと、あるいは望みながらも諦めたことはないか?」
アルヴィスの問いに、リリアナは少しだけ首を傾げ、記憶の隅にある、埃を被った小さな願いを掘り起こした。
「……そうですね。……かつての屋根裏部屋で、私は、いつか誰にも邪魔されずに、自分でお花を摘んで、その香りを誰かと一緒に楽しみたいと思っていましたわ。……誰かのための薬にするためではなく、ただ、綺麗だねと笑い合うために」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アルヴィスはリリアナを抱き抱えたまま、城のバルコニーから色彩の庭園へと、光の粒子となって舞い降りた。
降り立った場所には、リリアナの魔力に反応して、一斉に青白く輝く名もなき花々が絨毯のように広がっている。アルヴィスはリリアナを地面に下ろすことを頑なに拒んでいたが、彼女が「自分の足で歩きたい」と微笑むと、しぶしぶと、彼女の足元にだけ特別な精霊の繭を敷き詰め、その柔らかな肌が土に触れるのを防ぎながら、彼女の解放を許した。
リリアナは、幼子のように瞳を輝かせ、一輪の白い花を摘み取った。
その花の香りを、彼女は自ら嗅ぐのではなく、まずアルヴィスの鼻先へと寄せた。
「見てください、アルヴィス様。……とても、優しい匂いがしますわ。……私の力が、この子たちに『幸福』を教えてあげたみたい」
「お前の幸福が、世界に色彩を与えたのだ。……ああ、リリアナ。お前がそうして無邪気に笑うだけで、私はこの数千年の孤独が完全に癒えるのを感じる。……お前のために世界を一度滅ぼし、再編した私の目に、狂いはなかった」
アルヴィスはリリアナの手を取り、その指先に縋るように口づけを落とした。
彼はリリアナが「人間としての情動」を未だに持ち続けていることを、深く、深く愛していた。その脆さが、彼女を自分に依存させ、自分が彼女を守る理由となるからだ。
二人は、誰にも邪魔されない庭園の奥深くで、ただ寄り添い、精霊たちが奏でる安らぎの調べに耳を傾けた。
かつての加害者たちはもういない。
彼女を道具と呼んだ男も、彼女を嘲笑った妹も、その存在した事実ごと、記憶の彼方へ消え去った。
残されたのは、ただ一人の伴侶として、王の愛を独占するリリアナと、その彼女を永遠に甘やかし続けると誓った、銀髪の王。
「……アルヴィス様。私、もうどこへも行きません。……あなたの檻が、私にとって、世界で一番自由で、温かな居場所ですもの」
「……ああ、そうだ。お前の吐息のひとつ、まつ毛の震えひとつまで、すべて私が管理し、愛でてやろう。……お前の一生は、もう私の熱量なしでは刻ませはしない」
アルヴィスは、リリアナを再び力強く抱き寄せ、その唇を深い情熱を込めて塞いだ。
新生した世界の初夏の風が、二人の銀色の髪を優しく揺らす。
それは、虐げられた少女が手に入れた、あまりに重く、あまりに甘美な、ただ一人の伴侶としての「真実の平穏」であった。
二人の魂がひとつの輪を成し、城から溢れ出した虹色の光が、今や完成された唯一の「世界」を、どこまでも甘く、包み込んでいく。
救済劇の終着点は、今や、神の如き二人が織りなす、終わりなき幸福の序章へと、その形を変えていた。




