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第24話:王の悪夢と、真珠の涙


 精霊王の城の最深部、外界の音も光も届かぬほど深い場所に位置する王妃の寝所は、いまや世界で最も美しく、そして最も甘美な「檻」と化していた。

 第23話で「黒い精霊シャドウ」の残滓が聖域の静寂を乱して以来、アルヴィスの過保護は一種の狂気を含んだ執着へと変貌を遂げていた。彼はリリアナを一刻たりとも自分の目の届かぬ場所へやることを拒み、彼女の周囲を、触れれば魂さえも溶かし尽くしかねない強固な光の結界で封鎖してしまったのだ。


 部屋の中は、リリアナが退屈せぬよう、最高級の贅を尽くした調度品で埋め尽くされている。精霊たちが織り上げた真珠色の寝具、芳醇な香りを放つ名もなき名花の数々、そして、リリアナが指を動かすだけで望む旋律を奏でる光の竪琴。

 だが、その至高の贅沢の中にありながら、リリアナの心には、かつての屋根裏部屋での孤独とはまた異なる、透き通った寂寥感が忍び寄っていた。


「……アルヴィス様。もう、お仕事へ戻らなくてよろしいのですか?」


 リリアナが膝の上で彼女の指先を愛おしそうに舐め上げる王に問いかけると、アルヴィスは金色の瞳に蕩けるような、しかしどこか焦燥の混じった情熱を湛えて見上げた。


「私の仕事は、この世界の唯一の価値であるお前を守り、愛でることだ。……外の雑事など、私の眷属たちが処理すればいい。……リリアナ、お前はただ、私の腕の中で、私の熱だけを感じていればいいのだ」


 アルヴィスは、リリアナの細い手首を自分の掌で包み込み、まるで消えない刻印を刻むかのように何度も唇を寄せる。その執拗なまでの接触は、彼女がどこかへ消えてしまわないことを確認するための、神の祈りにも似た切実な儀式だった。


 やがて、極上の神酒と王の寵愛に酔いしれた二人は、重なり合うようにして深い微睡みの中へと落ちていった。

 だが、その眠りは安らかなものではなかった。

 「真名しんめい」を分かち合い、魂の深淵で繋がった二人の意識は、眠りの中で境界を失い、アルヴィスが数千年の間、心の奥底に封印し続けてきた「禁忌の記憶」が、濁流となってリリアナの精神へと流れ込んできたのである。


(……ああ、これは……だれの記憶……?)


 リリアナが夢の中で見たのは、色彩を完全に失い、血と煤の匂いだけが立ち込める凄惨な過去の景色だった。

 そこには、若き日のアルヴィスがいた。今の彼よりもさらに冷酷で、人間をただの虫けらのように見下していた頃の彼。そしてその隣には、リリアナによく似た面影を持つ、一人の少女がいた。


 その少女は、当時の人間たちにとって、神の怒りを鎮めるための「生贄」であり、国を豊かにするための「魔導資源」に過ぎなかった。

 夢の中のアルヴィスは、その少女を愛していた。だが、今の彼のように「独占」することを知らなかった彼は、一瞬の隙を突かれ、強欲に狂った人間たちによって、少女をその目の前で引き裂かれ、奪われてしまったのだ。


 少女が血の海の中で、それでもアルヴィスに「笑って」と告げながら光の塵となって消滅した瞬間、世界から一切の音が消えた。

 アルヴィスが咆哮し、一国を一夜にして氷土へと変えた絶望の咆哮が、リリアナの魂を激しく揺さぶる。


(……この方は、ずっと……この地獄を抱えていたのね。……私が消えることを、これほどまでに恐れていたのは……)


 リリアナは、夢の中で涙を流した。

 アルヴィスの過保護、あの執拗なまでの監禁に近い独占欲。その根源にあったのは、神としての傲慢さではなく、二度と最愛を失いたくないという、あまりに脆く、あまりに無垢な、剥き出しの「恐怖」だったのだ。


 リリアナがハッと目を開けると、現実の寝室でも、アルヴィスがうなされながら彼女の身体を壊れんばかりに強く抱きしめていた。


「……行くな、リリアナ。……私の前から、消えないでくれ……。……汚れになど、渡さない……」


 掠れた、震える声。

 リリアナは、自分を縛り上げる王の腕に、そっと自分の手を重ねた。

 怯えているのは、自分ではない。

 世界で最も強大で、万物を跪かせるこの王こそが、誰よりも深く、孤独な恐怖に震えていたのだ。


「……アルヴィス様。大丈夫ですよ、私はここにいます」


 リリアナは、母親が幼子を宥めるように、アルヴィスの銀髪を優しく撫で、その耳元で**「優しく語りかける子守唄風」**の歌を紡ぎ始めた。

 彼女の歌声は、夢の中で見たあの凄惨な血の記憶を、真白な光で塗り替えていく。


「――♪ ……悲しみは風に預け、痛みは土に還しましょう。……私はあなたの隣を、二度と離れはしません……」


 歌声に呼応して、部屋中の精霊たちが柔らかな光の粒子となって二人を包み込む。

 アルヴィスの荒い呼吸が次第に整い、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。その金色の瞳には、まだ悪夢の残滓による涙が滲んでいたが、リリアナの穏やかな微笑みを見た瞬間、堰を切ったように、さらに激しい情愛が溢れ出した。


「リリアナ……。……ああ、夢だと思っていた。……お前がまた、私の手の届かぬ場所へ行ってしまうのだと……」


「行きませんわ、どこへも。……私は、あなたの過去の絶望を塗り替えるために、ここにいるのですから」


 リリアナは、自らアルヴィスの唇に、慈しみ溢れる口づけを落とした。

 これまでの「檻」は、アルヴィスが一方的に彼女を閉じ込めるためのものだった。

 けれど今、この檻は、二人の魂を外界の穢れから守り、互いの欠落を埋め合わせるための「共有の聖域」へと変わった。


 アルヴィスは、リリアナの涙が宝石となって枕元に転がるのを指先で拾い上げ、狂おしいほどの独占欲で彼女を再び寝台へと押し留めた。

「お前は残酷だ、リリアナ。……そのような言葉をかけられれば、私はますますお前を世界から隠したくなる。……お前の一分一秒を、私の愛だけで塗り潰してしまいたくなる……」


「……ええ。構いませんわ、アルヴィス様。……あなたの檻が、私の一番安心できる場所なのですから」


 二人の魂が、かつてない密度で溶け合う夜。

 外界では、彼女を失った者たちが「光の記憶」すらも消去され、永遠の黄昏へと沈んでいく断罪が続いていたが、この色彩豊かな聖域の奥深くでは、新たな「共生の誓い」が、甘く、重く、二人の未来を縛り上げていった。


 しかし、二人が深く愛を確かめ合うその背後で。

 先刻、アルヴィス様の神威によって霧散したはずの「シャドウ」が、城の影から、リリアナの慈愛に満ちた歌声に惹かれるようにして、再びその黒い鎌首をもたげ始めていた。


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