第23話:淀みの残滓と、忍び寄る黒い影
精霊王の城を中心とした聖域は、いまや世界のどの場所よりも美しく、生命の輝きに満ち溢れていた。
かつての泥濘や凍てつく風の記憶は、リリアナの心からも、そしてこの地からも完全に拭い去られたかのように見えた。リリアナが目覚めれば、枕元には精霊たちが朝露から織り上げた極上の絹布が並び、窓の外では万物の女王を祝福する精霊たちの凱歌が、琥珀色の空をどこまでも高く響き渡っている。
しかし、万物の女王として覚醒し、この世界の微かな魔力の揺らぎさえも拾い上げるようになったリリアナの感覚は、その完璧な調和の中に、極めて小さな「澱」が混じり始めているのを、本能的に察知していた。
(……何かしら。この、胸を刺すような冷たい気配は)
それは、アルヴィスが城の深淵にある魔力の源流を検分するために席を外している、わずかな時間の出来事だった。
普段ならば、アルヴィスの強固で温かな魔力に包まれ、守られているリリアナだが、彼が離れた瞬間に、城の北端――かつて精霊王が数千年の孤独の中で収集した「古の記憶」が封印されている古い回廊の先から、不気味なノイズが流れ込んできたのだ。
リリアナは、引き寄せられるようにしてその回廊へと足を向けた。
アルヴィスからは「あそこには近づいてはならない」と、慈愛に満ちた、しかし絶対的な声音で禁じられていた場所。だが、女王としての自覚が、彼女にその場所の異変を無視することを許さなかった。
重厚な石の扉を、リリアナの指先がわずかに触れるだけで開く。
その瞬間、彼女を包んでいた春のような温かさが一転し、骨の髄まで凍りつかせるような死の冷気が吹き抜けた。
「……っ、これは、どういうことなの……?」
そこは、光の届かない虚無の世界だった。
美しい装飾が施された城の内部とは思えないほど、空気は淀み、足元の石畳からは、粘り気のあるどす黒い霧が、生き物のように蠢きながら立ち上がっている。
それは、リリアナが世界を浄化した際に弾き出された「悪意」の断片。あるいは、彼女を虐げ、泥に沈め、道具として使い潰そうとした者たちの、行き場を失った執念が結晶化した「黒い精霊」の巣窟だった。
『……お前、だけが……幸せに、なるのか……』
耳元で、湿った、気味の悪い声が響いた。
それはかつての妹フェリシアの、傲慢で歪んだ嘲笑。
『……呪い、子……お前は……我らと同じ、泥の中に……引き摺り戻して……やる……』
それは廃人となったギルバートの、虚無に満ちた憎悪の響き。
シャドウたちは、リリアナの放つ神聖な光を喰らおうと、ずるずると這い寄り、彼女の聖衣の裾を汚そうと、黒く煤けた指先を伸ばした。
リリアナは、かつての屋根裏部屋で震えていた時の恐怖が、冷たい水のように身体中を駆け巡るのを感じた。喉が引き攣り、歌を紡ごうとしても、冷たい霧がその声を奪おうと喉に絡みつく。
「――我が最愛に、触れるなと言ったはずだ」
その瞬間、世界が爆発した。
背後から現れたアルヴィスが放ったのは、単なる魔力ではない。それは万物を一瞬で塵に還す、神の如き激昂。
アルヴィスが指先をわずかに動かしただけで、リリアナを囲んでいたシャドウたちは、悲鳴を上げる暇もなく、黄金の炎によって蒸発させられた。
アルヴィスは、一瞬でリリアナの元へと駆け寄ると、彼女を壊れ物を扱うように、しかし決して逃がさないという狂信的な意志を込めて、その広い胸の中に抱きすくめた。
「リリアナ! なぜ、こんな場所へ来た! ……お前を、あのような不浄なものに一瞬でも晒した己の不手際が、許せん……!」
「……アルヴィス様。……ごめんなさい。でも、あの子たちは……」
「黙っていなさい。お前は何も知らなくていい。何も見なくていい」
アルヴィスの声は、震えていた。それは恐怖ではなく、リリアナを汚そうとする「汚れ」そのものに対する、底知れぬ憎悪と、彼女を失うことへの焦燥感。
彼はリリアナを軽々と抱き上げると、そのまま城の最深部にある、最も強固な結界に守られた寝室へと連れ戻した。
寝台にリリアナを降ろすと、アルヴィスは彼女を閉じ込めるようにして覆い被さり、その細い手首を自分の大きな掌で押さえつけた。
「リリアナ。お前が、あの汚らわしい記憶に触れるくらいなら、私はお前を、この部屋という名の永遠の檻に閉じ込めておきたい。……いいか、今日から私の許しなく、一歩もここから出てはならない。お前の視界には、私という光だけがあればいいのだ」
アルヴィスの独占欲は、この異変によって、ついに一線を越えた。
彼は彼女の首筋に顔を埋め、執拗に自分の匂いを、自分の魔力を上書きしていく。その唇からは、愛の言葉とともに、彼女を誰にも渡さないという呪文のような執着が零れ落ちた。
リリアナは、自分を縛り上げる王の熱を感じながら、静かに息を吐いた。
アルヴィスの愛は、あまりに重く、深淵のように深い。
けれど、あのシャドウたちが発していた「嘆き」を、リリアナの魂は聴き取っていた。
浄化して消し去るのではなく、誰かが受け止め、癒やさなければ、この淀みは永遠に消えないのではないか。
(……アルヴィス様。私は、ただ守られているだけの存在には戻れません。……あなたの孤独な数千年を救った時のように、私は、この世界の『汚れ』さえも包み込める、本当の女王になりたいのです)
リリアナは、自分を独占しようとする王の背中にそっと手を回し、彼を宥めるように抱きしめ返した。
アルヴィスは応えるように、より深く、逃げられない抱擁で彼女を飲み込んでいく。
外界では、彼女という光を失った国家が、自らの傲慢さに焼かれながら滅びゆくのを待つばかりだが、この色彩豊かな檻の中では、新たな「愛の葛藤」が、静かに、しかし劇的に幕を開けようとしていた。
王の過保護という名の鎖が、リリアナをより深く、神の愛の深淵へと誘っていくのであった。




