第22話:恩讐の彼方と、約束の庭
精霊王の城を中心とした聖域は、いまや外界から切り離された完全なる楽園となっていた。
しかし、女王として覚醒し、万物の魔力の流れを読み解く力を得たリリアナにとって、その「断絶」は絶対的なものではなかった。彼女の意識は、結界の膜を越えて、遠く灰色の霧に包まれた外界の悲鳴を、微かな風のささやきとして拾い上げることができた。
ある朝、アルヴィスの腕の中でまどろんでいたリリアナは、魂を掻き毟られるような、小さく、しかし純粋な祈りの波動を捉えた。
それはかつてのエル・ローゼ侯爵邸――いまや色彩を失い、崩れゆく廃墟となった場所から響いていた。
「……アルヴィス様。お願いがあります。……あの場所に、一人だけ、私が助けなければならない方がいるのです」
リリアナの言葉に、彼女の髪を慈しむように撫でていたアルヴィスの指が止まった。
彼の黄金の瞳に、一瞬で峻烈な不快感が宿る。彼にとって「人間」とは、最愛のリリアナを虐げ、泥に沈めた忌むべき種族でしかない。たとえ誰であろうと、聖域を汚す不純物を招き入れるなど、王のプライドが許さなかった。
「リリアナ、何度も言わせるな。あの汚濁にまみれた世界から、再び毒を持ち込む必要はない。お前を傷つけた連中は、誰一人として救う価値などないのだ」
「いいえ、あの方は違います。……屋根裏部屋で凍えていた私に、内緒で木苺を届けてくれた方です。私が精霊さんと話しているのを、一度も気味悪がらず、『お嬢様の心は綺麗ですね』と笑ってくれた……老庭師のロバートさんなのです」
リリアナは、自分を抱きしめるアルヴィスの広い胸にそっと手を当て、まっすぐに見つめ返した。
彼女の瞳には、かつての怯えはない。だが、恩人を想う切実な慈愛が満ちていた。
アルヴィスは、その凛としたリリアナの眼差しに、自分自身の魂が射抜かれるのを感じた。彼は彼女の涙に弱く、そして彼女の「意志」を何より尊重したいという、矛盾した独占欲を抱えている。
「……お前が、そこまで言うのであれば。……だが、城には一歩も入れんぞ。私が許すのは、聖域の端にお前のための『箱庭』を作ることだけだ」
「ありがとうございます、アルヴィス様……!」
◇◇◇
銀色の霧が、腐敗した王都の廃墟に音もなく降り立った。
かつてのエル・ローゼ侯爵邸は、いまや色彩が剥げ落ち、石壁は煤けたように黒ずんでいる。人々の記憶から消されたその場所では、かつての栄華を象徴した花々もすべて砂に還っていた。
その庭の片隅で、一人の老人が、枯れ果てたバラの苗を抱きかかえるようにして倒れていた。
ロバート。彼は、リリアナという光を失い、記憶からも抹消され、緩やかな死を待つだけとなったこの地で、唯一「リリアナ様が大切にしていたバラを、枯らしてはいけない」という一心だけで、その命を繋いでいた。
視界が白く塗り潰され、ロバートは死を覚悟した。
だが、その霧の向こうから現れたのは、恐ろしい死神ではなかった。
「……ロバートさん。迎えに来ましたわ」
透き通るような、それでいて鈴の音のように凛とした声。
ロバートが震える目を開けると、そこには、この世の美しさをすべて集めたような、神々しい装いの王妃が立っていた。彼女が歩くたびに、死んでいた土からは青い光を放つ草花が萌え出し、空気が一瞬にして芳醇な花の香りに満たされていく。
「……せ、精霊様……? ああ、なんと、お美しい……。わしは、ついに、お迎えが来たのですな……」
「いいえ。……私ですわ。屋根裏部屋にいた、リリアナです」
リリアナは、泥に汚れることも厭わずロバートの傍らに跪き、その荒れた手を優しく取った。
ロバートは目を見開いた。記憶にあるリリアナは、いつも俯き、震えていた少女。だが、目の前にいるのは、精霊たちを従え、世界を統べる女王の威厳を纏った「愛し子」そのものだった。
「……ああ、リリアナお嬢様……。生きて……これほどまで、立派になられて……。わしは……もう、思い残すことはありません……」
「いいえ、ロバートさん。……これからは、あの時のバラを、一緒に育てていただきたいのです。……もう、誰にもお邪魔をさせない、最高の庭で」
◇◇◇
アルヴィスは、リリアナが連れ帰ってきた「人間」を、眉を顰めて一瞥した。
彼は指先ひとつで、城から少し離れた湖の畔に、人間が呼吸し、生活できる特別な空間『約束の庭』を創造した。そこは外界の腐敗とは無縁の、リリアナの慈愛が直接降り注ぐ聖域内の楽園。
ロバートが、リリアナから贈られた新たな命の果実を口にし、その背筋を伸ばしたとき、リリアナの心の中にあった「過去」という名の影は、完全に消え去った。
「……よかった。本当に、よかった」
湖畔でロバートがバラの苗を植え替えるのを、満足げに見守るリリアナ。
そんな彼女を、アルヴィスは背後から逃がさないように抱きすくめた。彼の独占欲は、恩人である老人に対しても容赦なく牙を剥く。
「……満足か、リリアナ。これで、お前の過去に未練はなくなったな?」
「はい、アルヴィス様。……ありがとうございます。あの方を助けてくださって」
「感謝などいらん。……その代わり、今日はもう一歩もここから出さんぞ。……お前が、あの老人に向けた以上の微笑みを、私の腕の中だけで見せるまでな」
アルヴィスは、リリアナの首筋に熱い吐息を吹きかけ、その白い肌に自分のものだと証明するように、深い口づけの痕を刻んだ。
リリアナは、王の過保護な、しかしどこまでも甘い嫉妬を感じながら、心地よい幸福感に身を委ねた。
外界では、リリアナという最後の希望を完全に失った王家が、互いの罪をなすりつけ合いながら共倒れになろうとしていたが、聖域の『約束の庭』には、ただ静かで温かな春の風が吹き抜けていた。
ロバートが育て始めたバラが、王妃の祝福を受けて、最初の色彩を放ち始めたのである。




