第21話:神代の朝と、王妃の小さな反抗
城の最奥に位置する王妃の私室。
リリアナがゆっくりと瞼を持ち上げると、視界は極彩色の魔力粒子で埋め尽くされていた。彼女が目覚める瞬間の微かな幸福感に反応し、寝室の四隅からは目にも止まらぬ速さで白銀の蔦が伸び、天井を覆うほどの大輪の花を咲かせている。
(……ああ、またやってしまったわ)
リリアナは苦笑して、自分の細い指先を見つめた。
精霊王の真名を分かち合い、万物の女王として戴冠して以来、彼女の意志はそのまま世界の事象を書き換える力となっていた。かつては指先を凍えさせていた冬の風も、今の彼女が望めば、春を運ぶ柔らかな吐息へと変わる。
ふわり、と背後から心地よい熱が寄り添い、リリアナの細い腰を逃さぬように抱きしめた。
アルヴィスだ。彼は眠りの中ですら、リリアナを自分の腕という檻の中に閉じ込め、一寸の隙間も作ろうとはしない。
「目覚めたか、私の眩い太陽。……お前が瞬きをするたびに、この城の魔力密度が上がりすぎて、精霊たちが歓喜で倒れてしまうぞ」
「アルヴィス様……おはようございます。……お部屋をまた森のようにしてしまって、ごめんなさい。自分の力が、まだ少し手に余るようですわ」
リリアナが謝りながら振り返ると、アルヴィスは彼女の銀色の髪に顔を埋め、深く、深く、その魂の香りを吸い込んだ。その瞳は金色の炎を湛え、リリアナを一秒でも長く独占したいという、神ならではの苛烈な執着に濡れている。
「謝る必要などない。お前の望みが世界を変える。それがこの城の、いや、この世界の新しい理なのだからな。……リリアナ、今日もお前は、ただ私の隣で息をしていればいい。お前が指一本、まつ毛一筋動かすことすら、私が代わりにしてやりたいほどだ」
アルヴィスは、リリアナが寝台から降りようとするのを遮るように、彼女を自分の膝の上に引き上げた。
彼はリリアナに地面を歩かせることを極端に嫌う。女王となった今でも、アルヴィスにとってリリアナは「壊れやすく、そして誰にも見せたくない至高の宝物」のままなのだ。
精霊たちが運んできた、朝の食卓が整えられる。
それは、ただの食事ではない。
精霊王の魔力が結晶化した琥珀色の神酒、そしてリリアナの歌に反応して熟した、星の輝きを放つ果実。アルヴィスは自らその果実の皮を剥き、一口サイズに切り分けると、リリアナの唇に優しく寄せた。
「さあ、あーんして。お前のその清らかな喉を、私の愛で満たしてあげよう」
「……アルヴィス様、私、自分でいただけますわ。……それに、今日は少しだけ、精霊の森の深淵まで様子を見に行きたいと思っているのです。最近、少しだけ遠くの精霊たちが不安がっているような気がして……」
リリアナが小さな勇気を持って「王妃としての公務」を口にした瞬間、アルヴィスの瞳から温度が消えた。
彼はリリアナの口元に果実を押し込むようにして、その囁きを塞ぐ。
「お前が動く必要はない。精霊の不安など、私の眷属たちが片付ける。……リリアナ、お前はただ、私の檻の中で美しく笑っていればいいのだ。……世界の問題など、お前のその清らかな心を煩わせる価値さえない」
それは、甘い、あまりにも甘い束縛だった。
アルヴィスの過保護は、第一部の頃よりも遥かに苛烈になっていた。リリアナが女王としての力を得たことで、彼は「彼女が自分から離れてどこかへ行ってしまうのではないか」という、神としての傲慢さと表裏一体の、子供のような恐怖を抱いているようだった。
「……でも、アルヴィス様。私は、あなたの『道具』ではなく『伴侶』になったのです。……あなたが背負っているこの世界の重荷を、私も半分、分かち合いたいのですわ」
リリアナは、自分の口元を拭ってくれるアルヴィスの大きな掌を、そっと自分の両手で包み込んだ。
かつては、ただ守られるだけで幸せだった。
けれど、彼が数千年の間、どれほど孤独にこの世界を管理し、疲れ果てていたかを知ってしまった今、リリアナは「ただ愛でられるだけの存在」でいることに、小さな痛みを覚えるようになっていた。
「生意気なことを言うようになったな、私の愛し子よ。……だが、その願いは叶えてやれない。お前が外の世界に一歩でも踏み出せば、精霊たちは狂喜し、人間たちは再びお前の光を奪おうと集まってくる。……私は、お前を二度とあのような不快な視線に晒したくないのだ」
アルヴィスはリリアナを椅子から立ち上がらせ、そのままバルコニーへと連れ出した。
眼下には、リリアナの戴冠によって永遠の春を謳歌する「禁域の森」が広がっている。しかし、アルヴィスの視線はそのさらに先、灰色の霧が立ち込める「外界」に向けられていた。
「お前はここにいろ。お前が望むものはすべて私が用意しよう。お前の歌が聴きたいなら、私がこの城の壁をすべて共鳴させて世界中に響かせてやろう。……だが、お前自身を、私は一刻たりとも手放さない」
アルヴィスはリリアナを背後から抱きしめ、逃げられないようにその細い首筋に顔を寄せた。
彼の独占欲は、もはや一つの宇宙を形成している。
リリアナは、自分を縛り上げる王の熱を感じながら、静かに息を吐いた。
これは、幸せな悩みだ。
かつて泥の中で絶望していた自分に教えたとしても、きっと信じないだろう。世界で最も強大な王が、自分ひとりの存在にこれほどまでに怯え、執着し、愛を乞うているのだ。
(……それでも、私はあなたを支えたいのです、アルヴィス様)
リリアナは、アルヴィスの腕の中でそっと微笑んだ。
彼女は知っている。王がどれほど強情でも、彼女の「歌」ひとつで、その頑なな心が蕩けてしまうことを。
女王としての第一歩は、この美しき夫の「重すぎる愛」を、どうやって外の世界へと開かせていくかという、甘やかな戦いから始まる。
窓の外では、王妃の目覚めを祝う精霊たちの凱歌が、琥珀色の空にどこまでも高く響き渡っていた。
虐げられた過去を完全に葬り去った二人の、神代の如き日常。
けれど、その平和な色彩の裏側で、リリアナの鋭敏になった感覚は、世界の深淵から響く、かすかな「精霊の嘆き」の予兆を捉え始めていた。




