第18話:汚れなき拒絶と、王妃の威光
精霊王の城を取り囲む「禁域の森」は、いまや世界のどの場所よりも強固な断絶の意志に守られていた。
かつてリリアナを虐げたエル・ローゼ侯爵やギルバート・ラドクリフが、救いのない虚無の中へと消え去ってから数日が経過したが、外界の強欲という名の毒は、いまだにその境界線を執拗に這いずり回っていた。
城のテラスで、アルヴィスに寄り添いながら精霊の旋律を眺めていたリリアナは、ふと、北側の境界線から立ち上る「不快な魔力の揺らぎ」を感じ取った。
「……アルヴィス様。何かが、森を傷つけていますわ」
リリアナの言葉に、アルヴィスの黄金の瞳が鋭く細められた。
彼の意識はすでに、森の入り口で傲慢に立ち振る舞う「侵入者」たちを捉えていた。それは、滅びゆく旧王国の混乱に乗じ、精霊王妃という莫大な「加護の源」を略奪せんとする、隣国ゼノス帝国の使節団であった。
「愚らわしい……。あの男たちに絶望を与えてやったというのに、まだ学ばぬ者がいるとはな。……塵一つ残さず、この世の理から消去してくれよう」
アルヴィスが立ち上がると、城全体の魔力が一斉に反転し、吹き荒れる嵐となって外界へ牙を向けた。王の怒りは大地を震わせ、空の精霊たちは黒い雷光を帯びて咆哮する。
だが、その冷たく燃える王の右手を、リリアナの細く温かな指がそっと包み込んだ。
「待ってください、アルヴィス様。……あなたの大切な森を、これ以上あの方たちの血で汚してほしくありません。……私に、話をさせてください」
「……何だと? リリアナ、お前をあのような卑俗な者たちの目に触れさせるなど、到底許せることではないぞ」
アルヴィスは不快そうに顔を歪めたが、リリアナの瞳には、以前のような怯えは微塵もなかった。そこにあるのは、精霊王の伴侶として、そしてこの世界の均衡を司る「女王」としての、静かな、しかし確固たる意志。
「私はもう、あなたの腕の中で震えているだけの小鳥ではありません。……あの方たちに、はっきりと教えて差し上げなければならないのです。精霊の愛し子は、決して誰かの道具にはならないのだと」
アルヴィスは、その凛としたリリアナの姿に一瞬気圧されたように目を見開いた。
そして、狂おしいほどの独占欲を飲み込むようにして、低く笑った。
「……よかろう。だが、私も共に行く。お前から一歩でも離れることは、この私が許さん」
◇◇◇
禁域の森の境界線。
ゼノス帝国の使節団は、精霊の命を強制的に凍結させる古の「拒絶の鐘」を鳴らし続け、森を隠す銀の霧を強引に切り裂こうとしていた。
「聴け、精霊王よ! 我が帝国は寛大である! その娘、リリアナを差し出せば、今後一切この森を侵さぬと約束しよう! さもなくば、この聖域ごと焼き払い……」
指揮官の男が傲慢に声を張り上げた、その瞬間。
空間が音もなく裂け、銀色の光の道が、天から地へと一直線に降り注いだ。
現れたのは、精霊たちが織り上げた最高級の聖衣を纏ったリリアナ。
彼女はアルヴィスに抱かれることなく、自らの足で、一歩一歩、穢れた土を踏みしめて前へと進み出た。
彼女が歩くたびに、凍結されていた森の木々が瞬時に息を吹き返し、周囲の空気は花の香りを伴う圧倒的な浄化の波動で満たされていく。
「……お前が、リリアナか? 随分と美しくなったようだが、所詮は人間……。さあ、大人しくこちらへ……」
使節団の指揮官が、リリアナを品定めするように、煤けた手を伸ばそうとした。
しかし、彼は自分の指が彼女の数メートル手前で「見えない壁」に阻まれ、凄まじい衝撃と共に弾き飛ばされるのを味わうことになった。
「――お下がりなさい。不浄な手で、私の世界に触れることは許しません」
リリアナの声は、かつてのように小さく震えてはいなかった。
それは、神殿の鐘のように深く、聴く者の魂を直接震わせる、王妃の威厳に満ちた響き。
彼女の背後には、万物を滅ぼしかねない殺意を秘めたアルヴィスが控えているが、今のリリアナからは、王の助けすら必要としないほどの「格」の違いが溢れ出していた。
「私は、誰の所有物でもありません。……そして、私の歌が救うのは、私を愛し、私が愛すると決めたこの世界だけです。……あなたたちの国が求めているのは、私の歌ではなく、私を食い潰して得るための空虚な繁栄。……そのような醜悪な願いには、精霊の欠片一粒さえも与えはしません」
リリアナが静かに手を翳すと、使節団が誇らしげに鳴らしていた「拒絶の鐘」が、パリンとガラスのように砕け散った。
それと同時に、彼らが纏っていた高級な防具や、武器に込められていた魔力が一瞬で剥ぎ取られ、ただの錆びた鉄屑へと変貌していく。
「ヒッ……!? な、何だ、この力は……! 呪われし娘が、なぜこれほどの……!」
「私は呪われてなどいませんでした。……あなたたちが、愛を知らぬがゆえに、私の光を『不気味』だと蔑んだだけなのです」
リリアナは、哀れみさえも感じさせない、透き通った瞳で彼らを見据えた。
「帰りなさい。……そして、自らの国が、どれほど孤独で灰色の場所に堕ちているかを、その目で見届けるのです。……二度と、私の森を汚さないように」
リリアナの言葉と共に、銀色の光の波が押し寄せ、使節団は文字通り森の外へと「掃き出された」。
彼らが城に戻るまでに、その記憶の大部分は削り取られ、ただ「人知を超えた神々しい王妃」への、消えない恐怖だけが魂に刻まれることになるだろう。
◇◇◇
境界の騒動を片付け、城へと戻る銀の道の上。
それまでリリアナの背後で黙って控えていたアルヴィスが、唐突に彼女を背後から抱きすくめた。
「……アルヴィス様? そんなに強く抱きしめては、苦しいですわ」
「黙れ。……お前が、いつの間にか、私が見守る必要もないほどに強く、美しくなってしまった。……そのことが、これほどまでに私の独占欲を苛むとは思わなかったぞ」
アルヴィスは、リリアナの項に顔を埋め、子供のように深く、彼女の香りを求めた。
彼は誇らしかった。自分が選んだ愛し子が、誰の手も借りずに世界を支配する威光を示したことが。
だが同時に、自分だけのものにしておきたかった彼女の輝きが、世界に知られてしまったことへの、どうしようもない焦燥感が彼を突き動かしていた。
「お前はもう、私の腕の中から飛び出していける力を持ってしまった。……リリアナ、約束してくれ。どんなに強くなっても、私の隣から、この腕の中からだけは、消えないと」
リリアナは、自分を縛り上げる王の腕に、そっと自分の手を重ねた。
かつては「檻」に感じたかもしれないこの重みが、今は何よりも温かく、愛おしい。
「……ふふ。どこへも行きませんわ。……私が王妃になれたのは、あなたが私を、一人のリリアナとして愛してくださったからですもの。……私の強さは、あなたを守り、愛するためにあるのです」
リリアナが振り返り、アルヴィスの頬に優しく口づけを落とすと、精霊王の激しい殺意は、一瞬にして蕩けるような情愛へと溶けていった。
外界では、リリアナという唯一無二の浄化を失った国々が、緩やかに、しかし確実に「灰色の終焉」へと向かっていたが、銀色の城に流れる時間は、ただひたすらに甘く、色彩に満ち溢れていた。
王妃として覚醒したリリアナ。彼女の物語は、虐げられた過去を完全に葬り去り、神の如き夫と共に世界を導く、新たな永遠へと足を踏み出したのである。




