第17話:無意識の福音と、精霊たちの進化
精霊王の城において、リリアナが歩く必要はない。
目覚めてから眠りにつくまで、彼女の移動はすべて、アルヴィスの強固で温かな腕の中、あるいは彼が指先ひとつで作り出す光の揺り籠によって行われる。
「アルヴィス様、今日はあの噴水の方まで行ってもよろしいでしょうか」
「お前が望むなら、世界の果てまで連れて行こう。だが、今はまだ、この庭の空気がお前を癒やすのに最適だ」
アルヴィスは、リリアナを愛おしそうに抱き上げたまま、白銀の回廊をゆっくりと歩む。
彼が一歩進むごとに、冷たい石床からは柔らかな青い苔と白い花が萌え出し、リリアナの聖衣の裾を汚さぬよう、精霊たちが風の盾を作って周囲を囲む。かつての彼女を苦しめた「寒さ」や「汚れ」といった概念は、この王の腕の中では、お伽話の中の悪役のように非現実的なものへと変わっていた。
ふと、リリアナの視線が回廊の隅に留まった。
そこには、昨日の激しい魔力の奔流に当てられたのか、光を失い、透き通るような羽を力なく震わせている下級精霊たちが、数十体ほど固まっていた。
彼らはまだ形すらおぼつかない、光の粒のような存在だ。人間たちの欲にまみれた祈りには見向きもされず、ただ世界の片隅で魔力の残滓を食べて生きる、名もなき命たち。
(……かわいそうに。少し、疲れてしまっているのね)
リリアナの胸の奥から、温かな、しかし抗いがたい慈愛の情が込み上げてきた。
かつて自分が屋根裏部屋で孤独に震えていた時、寄り添ってくれたのは、彼らのような小さき精霊たちだった。彼らがいたから、自分は「不気味な子」と呼ばれても、心を失わずにいられたのだ。
リリアナはアルヴィスの首に腕を回したまま、そっと瞼を閉じ、喉の奥から音を紡ぎ出した。
「――♪ ……眠れる光よ、目覚めの時を。……私の熱を分け、あなたの翼に真実の彩り(いろ)を……」
それは、誰に命じられたわけでもない、リリアナの魂から溢れ出した無意識の福音。
アルヴィスの「真名」を宿した彼女の声は、もはや単なる旋律ではなかった。それは万物に生命を吹き込み、強制的に進化の階段を駆け上がらせる、王妃の権能そのもの。
リリアナの口からこぼれた音の粒が、金色の光の帯となって回廊の隅へ降り注ぐ。
その瞬間、世界が震えた。
光を失っていた下級精霊たちが、リリアナの歌声を浴びた途端、目を見開くような眩い輝きを放ち始めたのだ。
チリ、チリと空気が爆ぜるような音が響き、ただの光の粒だった彼らの身体が、みるみるうちに形を成していく。透き通るような人の幼子の姿、あるいは宝石の鱗を持つ美しい鳥の姿。
彼らは一斉に「中位精霊」へと進化を遂げ、その瞳に「知性」と、そして「狂信的な敬愛」を宿して、リリアナを見上げた。
「……あ、ああ……! 主……我らが母上……!」
進化した精霊たちが、歓喜の声を上げて舞い上がる。
彼らはリリアナの周囲に、見たこともないほど瑞々しい花の雨を降らせ、彼女が纏う聖衣の裾に次々とキスを捧げた。回廊全体が、リリアナという太陽を中心とした、極彩色の聖域へと変貌していく。
「お、お姉様……いえ、王妃様……! ありがとうございます!」
かつての小さな氷の精霊ルルもまた、一段と大きな姿へと成長し、リリアナの肩に止まって、その頬に誇らしげに顔を寄せた。
だが、その光景を、黄金の瞳を細めて見つめている存在がいた。
「……リリアナ」
低く、地響きのような、嫉妬の色を隠そうともしない声。
アルヴィスは、リリアナを自分の方へ強く引き寄せると、彼女を独占するようにその背中に大きな翼を模した魔力の壁を展開した。集まっていた精霊たちが、王の凄まじい威圧に当てられ、一斉に地面へとひれ伏す。
「お前の愛が、私以外のものに注がれるのは、例えそれが私の眷属であっても心地よくないな。……お前のその清らかな声は、私の孤独を癒やすためにあるのではなかったのか?」
「アルヴィス様……? あの子たちが、あまりに辛そうでしたので、つい……。でも、私が一番大切に想っているのは、あなただけですわ」
リリアナが困ったように微笑むと、アルヴィスの独占欲は、怒りではなく、さらに深く、暗い熱狂へと変わった。
彼はリリアナを抱きかかえたまま、急速に回廊を戻り、自分たち以外には誰も入れない最奥の寝室へと彼女を連れ戻した。
「精霊たちの声を聞きすぎだ、リリアナ。お前は少し、自分がどれほどの影響力を手に入れたか自覚が足りないようだ。……お仕置きが必要だな」
柔らかな寝台に降ろされたリリアナを、アルヴィスが覆い被さるようにして閉じ込める。
彼の銀髪が、檻のように彼女の視界を遮り、金色の瞳が、彼女の魂を飲み込もうとするかのように至近距離で輝く。
「今は、他のすべての音を忘れろ。私の鼓動、私の吐息、私の愛の言葉だけを聴き……私だけを、その瞳に映し続けろ。……いいな?」
「……はい、アルヴィス様。……私の、大好きな、旦那様」
リリアナは、アルヴィスの頬にそっと手を添えた。
かつての自分は、ただ震えて、誰かの慈悲を待つだけの存在だった。
けれど今、この手の中には、誰かを、そして世界を救うための「力」がある。
そしてその力を、この愛おしい王が、自分にすべて託してくれたのだ。
アルヴィスの唇が重なり、甘い熱がリリアナの思考を溶かしていく。
外界では、彼女を失った者たちが、自ら放った毒に溺れて滅びゆくのを待つばかりだが、この城の奥深くでは、ただ愛されるためだけに存在する「女王」が、王の独占欲という名の深い淵で、幸せそうにその瞳を閉じていた。
彼女の無意識の鼻歌ひとつで、世界が作り変えられていく。
それが、精霊王妃として覚醒したリリアナに与えられた、あまりに甘美で、残酷なまでの「愛の重さ」だった。




