第16話:真名の熱量と、甘すぎる檻
深い、深い、真珠色の霧の中から浮上するように、リリアナは意識を覚醒させた。
瞼を押し上げるよりも先に感じたのは、身体を貫くような「熱」だった。それは病による不快な発熱ではなく、全身の細胞一つひとつが産声を上げ、歓喜に震えているような、圧倒的な生命の胎動。
(……ああ、私、本当に生まれ変わったのね……)
リリアナがゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、昨日までよりも遥かに鮮明で、眩いばかりの色彩の世界だった。
天井の白銀の意匠からは、目に見えるほど濃密な魔力の粒子が、光のカーテンとなって降り注いでいる。窓の外から聞こえる風の音は、もはや単なる自然現象ではなく、精霊たちが奏でる多重奏の調べとして、彼女の鼓膜を心地よく震わせた。
リリアナがおそるおそる寝台の上で身体を動かそうとすると、指先が触れた極上の絹布が、彼女の幸福感に呼応して、一瞬にして淡い桃色に染まり、精霊の糸へと質を変えていく。
かつての彼女を縛っていた「重力」や「肉体の重み」といった概念が、まるで薄皮を剥ぐように消え去っていた。
「目覚めたか。私の、唯一無二の伴侶よ」
耳元で響いた、甘く、低い、独占欲に満ちた声。
リリアナが視線を向けるまでもなく、背後から力強い腕が回り、彼女の細い腰を逃さぬように引き寄せた。
そこには、銀髪を乱し、金色の瞳に蕩けるような情愛を湛えたアルヴィスがいた。彼はリリアナのうなじに顔を埋め、陶酔するようにその香りを吸い込んでいる。
「アルヴィス様……おはようございます。……なんだか、身体がとても不思議な感じです。力が、内側から溢れてくるようで……」
「当然だ。お前の中には、私の『真名』が刻まれた。お前はもう、ただの脆弱な人間ではない。私と魂を分かち合い、永遠を共にする、この世界の女王なのだからな」
アルヴィスは、リリアナの肩に唇を寄せ、まるで自分の所有物であることを確かめるように、執拗に愛撫を繰り返した。その指先が触れるたびに、リリアナの意識は甘い熱に浮かされ、思考が白く塗り潰されていく。
「お前の中に私の魔力が馴染んでいくのが、手に取るように分かる。……ああ、リリアナ。お前を片時も離したくない。このまま、この部屋ごと結界で閉じ込め、千年の時を微睡んで過ごしたいほどだ」
「ふふ、それでは、庭の精霊さんたちが寂しがりますわ。……私も、アルヴィス様と一緒に、あの美しい庭を歩きたいのです」
リリアナが微笑みながら寝台から降りようとすると、アルヴィスの腕にぐっと力がこもった。
「駄目だ。お前のその清らかな足を、地面につけさせるわけにはいかない。……お前の移動はすべて、私の腕の中だけで行えばいい」
その言葉は、冗談ではなく本気だった。
アルヴィスはリリアナを軽々と抱き上げると、そのまま天蓋付きの安楽椅子へと運び、自分の膝の上に彼女を座らせた。まるで、一度でも地面に降ろせば、どこかへ消えてしまうのではないかと危惧しているかのような、過保護の極み。
そこへ、主たちの目覚めを察知した精霊たちが、朝の食卓を整えるために集まってきた。
彼らが運んできたのは、人間界の贅を尽くした料理などではない。
夜空から集めた星の雫を固めたゼリーや、月の光で熟成させたという、水晶のように透き通った果実。そして、精霊王の魔力を直接注ぎ込んだ、琥珀色の神酒。
「さあ、あーんして、リリアナ。お前の喉を、もっと甘いもので満たしてあげよう」
アルヴィスは自ら銀のスプーンを手に取り、一口ずつ、慈しむようにリリアナの口へ運ぶ。
一口食べるごとに、人間だった頃に感じていた「空腹」という名の飢餓感が、霧が晴れるように消え去っていく。代わりに満たされるのは、魔力が直接魂を癒やす、至高の充足感。
「……本当においしい。私、あんなにひどい泥の中にいたことが、もう思い出せないくらいです」
「思い出さなくていい。お前の記憶にあるべきなのは、私の声と、私の体温、そしてこの美しい色彩だけだ。……お前を苦しめた灰色の世界は、もう、この世のどこにも存在しない」
アルヴィスは、リリアナの口元を自分の親指で優しく拭うと、そのまま彼女の指を一本一本、愛おしそうに舐め上げた。その仕草には、神としての威厳よりも、最愛の女性を支配し、甘やかし、自分の色に染め上げたいという、苛烈なまでの欲望が滲んでいる。
窓辺でアルヴィスの胸に抱かれ、彼が魔法で編んでくれる「永遠の花冠」を載せられながら、リリアナはただ、流れる光の河を眺めていた。
かつての彼女にとって、一日は「耐える時間」だった。
けれど、この銀色の檻の中では、一分一秒が、自分を全肯定してくれる甘い雫となって降り注ぐ。
「……アルヴィス様。私は、本当に幸せです。……あなたが、私を不気味だと言わずに、見つけてくれたから」
「不気味なものか。お前のその歌声がなければ、私は今頃、ただの冷たい石像になっていた。……お前こそが、私の魂を救ったのだ、リリアナ」
アルヴィスはリリアナの額に、誓いのような長いキスを落とした。
外界では、彼女を失った国家が滅びの歌を奏でているはずだが、この部屋には、ただ二人の甘やかな吐息と、精霊たちの祝福の羽音だけが満ちている。
虐げられた令嬢としての過去は、いまや完全に、王の独占欲という名の深い淵へと沈んだ。
リリアナは、アルヴィスの温もりに身を委ね、閉じられた瞼の裏で、これから始まる永遠という名の色彩を、幸せそうに夢見ていた。




