第14話:届かぬ哀願と、選ばれし永遠
禁域の森の入り口は、いまや怨嗟と泥にまみれた、この世の終わりを象徴する地獄の門と化していた。
かつては人々の畏怖を集めた精霊の森。しかし今、その境界線に集まっているのは、生きる希望を失い、死臭を漂わせる無様な人間たちの群れであった。
「リリアナ……! リリアナ、聞こえているのだろう!? 父が悪かった、すべては間違いだったのだ! お前を愛している、だから戻ってきてくれ!」
エル・ローゼ侯爵は、かつての高貴な威厳など微塵も残さず、冷たい泥の中に膝をついて叫んでいた。彼の衣服は引き裂かれ、爪の間には泥が詰まり、流れる涙は煤けた頬に汚い筋を作っている。
その傍らには、もはや「人間」としての機能を失い、虚空を見つめてよだれを垂らすギルバートが、重い鎖に繋がれて転がっていた。かつてリリアナを「道具」と呼び、冷酷な支配を誇っていた辺境伯は、今や精霊の加護を失ったことによる狂気の中で、ただ自分の指を噛み切ろうとする廃人と化していた。
彼らの背後には、国王から派遣された使者たちが、精霊の威圧に当てられて真っ青な顔で震えている。彼らは一国の存亡を賭け、生贄を捧げるような心地で、この森に住まう「真の愛し子」の慈悲を乞うていた。
「すべては、あのフェリシアが仕組んだことなのだ! お前を呪い子と呼び、屋根裏に追いやったのは私の本意ではなかった! 頼む、リリアナ……国を、我が家を救ってくれ! お前が戻れば、すべてを元の通りにしてやろう!」
その醜悪な叫び声は、外界の汚濁を一切遮断した精霊王の城――その最上階にある、静謐なテラスにまで届いていた。
アルヴィスは、自分の膝の上で、精霊たちが朝露から作り上げた繊細な菓子を摘んでいたリリアナの肩を、そっと、しかし逃がさないという確固たる意志を込めて抱き寄せた。
「……リリアナ。外が随分と騒がしいな。お前を泥に沈め、道具と呼び、その心を磨り潰した者たちが、今さらお前の慈悲を乞うて這いつくばっている。……どうしたい? 直接、その無様な姿を見てやるか?」
アルヴィスが空中に指先で弧を描くと、虚空に揺らめく巨大な水鏡が現れた。
そこに映し出されたのは、あまりにも惨めで、目を背けたくなるほど醜悪な「かつての家族」と「かつての婚約者」の姿だった。
リリアナは、その鏡を静かに、ただ静かに見つめた。
かつての彼女なら、この男たちの姿を見ただけで、恐怖で身体が石のように強張り、呼吸をすることさえ忘れて許しを請うていただろう。あるいは、身を削るような同情を覚え、自分を犠牲にしてでも助けようとしたかもしれない。
だが、今のリリアナの心に湧き上がったのは、怒りでも、悲しみでも、ましてや復讐心でもなかった。
(……どうして、あんなに小さな人たちを、あんなに怖がっていたのだろう……)
それは、乾いた、純粋な不思議さだった。
最高級の聖衣を纏い、世界の根源たる王に魂の底から愛され、精霊たちの奏でる真実の美しさを知った今のリリアナにとって、鏡の中の男たちは、道端に転がっている煤けた石ころよりも、価値のないものに見えた。
彼らが叫ぶ「愛」という言葉は、かつて彼女が求めていた温かなものではなく、ただ自分たちの保身のために紡がれた、空虚な呪縛の鎖にしか聞こえない。
「アルヴィス様。……私、あの方たちの声が、もう言葉として私の耳には届かないのです。ただ、不快な風が湿った音を立てているようにしか、感じられません」
「くく……そうか。お前は、あのような汚れを完全に、魂から切り離したのだな」
アルヴィスは満足げに目を細めると、水鏡の向こう側にいる者たちへ、リリアナの「現在」の姿だけを投影させた。
泥の中に這いつくばっていた侯爵と、意識を混濁させていたギルバートの目の前に、突如として銀色の光が爆発するように溢れ出した。
そこに現れたのは、かつての面影を数千倍も神々しく、眩いばかりに美しくした、精霊王の伴侶としてのリリアナの幻影だった。
「……あ、ああ……リリアナ……! ああ、なんて、なんて神々しい……!」
侯爵は、自分の娘が、人間界のどんな王妃や聖女よりも高貴な存在になったことを悟り、震える手を伸ばした。だが、彼の汚れた指がリリアナの影に触れる直前、鋭い火花が散り、その皮膚を焼き焦がした。
リリアナは、鏡越しに彼らを一瞥し、静かに、そして冷徹に唇を開いた。
「お父様。ギルバート様。……そして、私を捨て、道具として扱った世界の皆様。……私には、あなたたちの住む灰色の世界は、もう見えないのです」
彼女の声は、もはや震えてはいなかった。
かつての屋根裏部屋で一人、精霊に歌っていた時の寂しさは消え、そこには王の愛によって育まれた、揺るぎない威厳が宿っている。
「私は、私を『人間』として、そして『たった一人の女性』として愛し、慈しんでくださる方を選びました。あなたたちの元へ戻り、再びあの泥を啜る理由など、私の心には一欠片も残っていないのです。……さようなら。あなたたちは、あなたたちが作り上げ、守ろうとしたその不毛な地で、永遠に色彩を失ったまま、己の罪を噛み締めて生きてください」
「待て! 行かないでくれ! リリアナ、我々を見捨てないでくれ!」
侯爵の絶望に満ちた叫びを遮るように、アルヴィスが前に出た。彼の金色の瞳が、水鏡越しに彼らを射抜き、その魂を直接凍りつかせる。
「……聞いたか。これが、お前たちが泥に沈め、磨り潰そうとした少女の、最後にして最大の慈悲だ。……二度とお前の汚れた声が、私の愛し子の耳を汚すことはない。お前たちの世界から、光を剥奪する。それが、我が最愛を傷つけた報いだ」
アルヴィスが指先を鋭く振り抜くと、水鏡は凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。
それと同時に、禁域の森を囲んでいた結界が、これまでの数万倍の密度を持って、物理的にも概念的にも完全に閉ざされた。
外界との道は、もう二度と開かれることはない。
リリアナと人間界を結んでいた「家族」という名の呪いも、「婚約」という名の鎖も、いま、一本残らずこの世界の理から消滅したのだ。
「……よく言った、リリアナ。お前は、真に私のものになったのだ」
アルヴィスは、リリアナを椅子から立ち上がらせ、逃げられないほど深く、そして狂おしいほどの情愛を込めて抱きしめた。
彼の胸から伝わるのは、もはや神としての冷静さではなく、目的を完遂した勝者の熱と、愛する者を独占できたことへの狂喜。
「これで、もう外の喧騒に怯える必要はない。……これから、お前の世界には、私と、私がお前に与える光しか存在しない。……幸せか、リリアナ?」
「……はい、アルヴィス様。私、あの方たちの大きな声を聴いていた時よりも、今の、あなたの静かな心音が一番落ち着きます。……もう、どこへも行かないでくださいね」
リリアナは、アルヴィスの首に細い腕を回し、自らその唇に、誓いのような口づけを落とした。
外界では、国王が使者の全滅を知って狂乱し、エル・ローゼ侯爵家が即座に取り潰され、ギルバートが廃墟の城で飢えと狂気の中に朽ち果てる、終わりのない断罪が始まろうとしていた。だが、それはもはや、リリアナという光を失った世界が当然受けるべき報酬に過ぎない。
精霊たちが、かつてないほど神聖な祝福の賛美歌を奏で始め、銀色の城は、灰に染まりゆく人間たちの歴史から永遠に消失した。
虐げられた少女が人間を辞め、神に愛でられる「永遠の王妃」として新生したその瞬間、二人の間には、外界の誰にも汚されることのない、真実の色彩に満ちた永遠が始まったのである。




