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第13話:真実の献身と、崩れゆく王都


 精霊王の城で迎える朝は、リリアナにとって今や呼吸をするのと同じくらい、自然で、そして甘やかなものになっていた。


 目覚めれば、そこには常にアルヴィスの黄金の瞳がある。

 彼はリリアナが目を覚ます瞬間を、世界で最も貴重な奇跡を待つかのような慈しみで見守っていた。目覚めの口づけは、彼女の魂に直接熱を灯し、精霊たちが運んできた朝露の雫は、彼女の喉を清らかに潤す。


 だが、この日のリリアナの心には、小さな、けれど確かな「願い」が芽生えていた。


(……私は、アルヴィス様に救われてばかり……)


 最高級の聖衣を与えられ、宝石のような食事を与えられ、一切の苦痛から遠ざけられている。

 かつての彼女にとって、それは夢にすら見ることができなかった「幸福」そのものだ。けれど、アルヴィスの傍にいる時間が長くなるほど、彼女は気づいてしまったのだ。


 この美しき王もまた、かつての自分と同じように、数千年の孤独を抱えて生きてきたのだということに。


「……アルヴィス様。今日は、私からお願いがあるのです」


 朝食の後、テラスでアルヴィスの膝に抱かれていたリリアナが、おずおずと口を開いた。

 アルヴィスは、リリアナの銀色の髪を愛おしそうに指で弄んでいた手を止め、怪訝そうに眉を上げた。


「願い? 何でも言うがいい。お前の望みなら、空に流れる精霊の河を逆流させてでも叶えよう」


「そんな、大きなことではありません。……ただ、私の歌を、聴いてほしいのです」


 アルヴィスの身体が、微かに強張った。

 彼はリリアナを傷つけた外界の者たちが、彼女の「歌」を道具として、燃料として搾取してきたことを何より憎んでいる。だからこそ、彼はリリアナに一度も歌を強要したことはなかった。


「……リリアナ、私はお前に働けと言った覚えはない。歌いたくないのなら、一生その唇を閉じていても、私はお前を愛し続ける」


「いいえ。……義務でも、仕事でもないのです。……私が、あなたの笑顔を見たいから、歌いたいのです」


 リリアナは、アルヴィスの大きな掌に自分の手を重ねた。

 かつて泥の中で絶望していた時、彼女を救い上げたのは彼の圧倒的な力だった。今度は、自分のこの小さな声で、彼の深い孤独を癒やしたい。


 リリアナは深く息を吸い、喉の奥から音を紡ぎ出した。


「――♪ ……優しき銀の夜よ、星なき空を渡る光よ。……私を見つけてくれた、その瞳に、永遠の安らぎを……」


 それは、かつての「奉納」とは全く異なる響きだった。

 恐怖も、痛みも、焦りもない。ただ、目の前の男を愛し、慈しみたいという純粋な想いだけが乗せられた、優しく語りかける子守唄。


 歌声が響き渡ると、城中の精霊たちが狂喜乱舞し、庭園の花々が一斉に開花した。

 アルヴィスは、その調べを聴きながら、目を見開いて立ち尽くした。

 数千年の時、彼がずっと求めていたのは、このような「無償の愛」による共鳴だった。


「……ああ、リリアナ。お前という子は……」


 アルヴィスは、リリアナを折れんばかりに強く抱きしめた。

 彼の目には、神の領域に達した者にはあり得ないはずの、熱い感情が滲んでいる。

 リリアナの自発的な献身が、精霊王という孤独な存在を、真の意味で「救済」した瞬間だった。


 ◇◇◇


 その頃、外界の王都では、国家そのものが「死」に向かってカウントダウンを始めていた。


「聖女は何をしている! 早く泉を浄化させろ!」


 王宮の謁見の間には、国王の怒号が響いていた。

 エル・ローゼ侯爵邸から始まった腐敗は、いまや王都全域に広がっていた。王宮の美しい庭園も、高価な噴水も、すべてが煤けたような灰色の泥に覆われている。


 最後の望みとして、神殿の最奥で祈りを捧げさせられているフェリシアだったが、その姿はもはや「聖女」とは呼び難いものだった。

 精霊に物理的に拒絶され続けた彼女の肌は赤黒く腫れ上がり、艶やかだった金髪は抜け落ち、生気のない藁のようになっている。


「嫌……もう嫌よ! 精霊たちが、私を叩くの! あっちへ行って!」


 フェリシアが絶叫しながら祭壇に縋り付くが、彼女が呼び寄せようとする精霊は一人も現れない。

 それどころか、彼女がかつて「香料」で縛り付けていた精霊の残滓たちが、いまや怨霊のような気配となって彼女の精神をじわじわと削っていた。


「……陛下。エル・ローゼ侯爵、および辺境伯ギルバートが、真の『愛し子』であったリリアナ様を虐げ、不当に追放した罪はもはや明白です」


 宰相が、沈痛な面持ちで報告する。

「精霊王の怒りを鎮めるには……もはや、あの方を連れ戻すしか道はございません。……もし拒絶されれば、この国は、一年と持たずに灰に還るでしょう」


 国王は、震える手で頭を抱えた。

 リリアナという、一人の少女を「呪い子」と呼び、使い潰そうとした代償。

 それは、王家が積み上げてきたすべてを失うほどに、あまりに重く、残酷なものだった。


「……使者を出せ。罪人である侯爵と辺境伯の首を差し出してでも、リリアナ殿の許しを乞うのだ」


 ◇◇◇


 王都から派遣された使者たちが、必死の思いで「禁域の森」の入り口に辿り着いた。

 彼らは泥にまみれ、精霊の威圧に当てられて這いつくばりながら、姿の見えない主に向かって慈悲を請う。


「……リリアナ様! リリアナ様、どうかお戻りください! この国を、お救いください!」


 その醜悪な叫び声は、精霊王の結界を抜けて、アルヴィスの耳にだけ届いた。

 アルヴィスは、自分の胸の中で幸せそうに微笑むリリアナの耳を、そっと自分の掌で覆った。


「……汚らわしいな。今さらお前を求めるなど、虫が良すぎる」


 アルヴィスの金色の瞳に、冷酷な殺意が宿る。

 彼はリリアナにはその醜態を見せず、ただ、彼女の額に優しく唇を寄せた。


「何も聞こえないか、リリアナ。お前を傷つけた世界の悲鳴など、お前が知る必要はない。……私は、お前がくれたこの歌声を、永遠に誰にも渡さない」


 結界の外で使者たちが絶望に咽ぶ中、銀色の城の中では、リリアナの清らかな歌声が、どこまでも甘く響き続けていた。

 外界が灰に染まろうとも、リリアナの世界は今、精霊王の愛によって最も美しく、色鮮やかに輝いている。


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