第12話:安らぎの微睡みと、廃墟の伯爵
銀色の霧に包まれ、精霊王の城へと帰還した瞬間。
張り詰めていたリリアナの心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
かつての婚約者、自分を道具と呼び泥に沈めたギルバート――その男に毅然と決別を告げた高揚感は、安堵という名の巨大な波に呑み込まれ、彼女の膝から力を奪った。
「おっと……。よく頑張ったな、リリアナ」
地面に崩れ落ちるよりも早く、アルヴィスの逞しい腕が彼女の細い腰を抱き止めた。
彼は当たり前のようにリリアナを軽々と抱き上げると、城の最深部にある、王専用の休息の間へと運んでいく。そこは、世界で最も純度の高い魔力が満ち、ただ呼吸をするだけで魂が洗われるような聖域だった。
アルヴィスは大きな安楽椅子に腰を下ろすと、リリアナを降ろすことなく、自分の膝の上にすっぽりと収めた。
「アルヴィス様……私、自分で歩けます。……それに、その、少し重いのでは……」
「黙っていなさい。お前は今、自分の心がどれほど疲弊しているか分かっていない。……重いなどと、羽毛を抱いているようなものだ」
アルヴィスは、リリアナの冷え切った指先を自分の大きな掌で包み込み、ゆっくりと魔力を流し込んで温めていく。
精霊たちがどこからか、甘く芳醇な香りを放つ琥珀色の茶を運んできた。アルヴィスは自ら杯を手に取り、リリアナの唇にそっと寄せた。
「一口ずつ、ゆっくり飲むのだ。お前の喉は、あのような男に言葉を投げるためにあるのではない。私の愛を受け取り、喜びを紡ぐためにあるのだからな」
温かな液体が喉を通るたびに、身体の奥に凝り固まっていた「灰色の記憶」が溶け出していく。
リリアナは、アルヴィスの胸に顔を埋めた。以前なら、自分のような不気味な娘がこんなにされるなんて、と遠慮していただろう。けれど今は、この圧倒的な熱量が心地よく、離れがたかった。
「……怖かったわけでは、ないのです。ただ、あの方の瞳を見たとき、本当にもう……私はあの方の世界にはいないのだと、そう確信して……」
「ああ。奴はお前を失い、お前が持っていた輝きの代わりに、永遠の絶望を手に入れた。……もう案ずるな、リリアナ。お前の視界を汚すものは、すべて私が排除した」
アルヴィスは、リリアナの銀色の髪を梳くように指を通し、何度も、何度も、慈しむようにその額にキスを落とした。
その独占欲に満ちた仕草に、リリアナは心地よい眠気を感じ始める。王の腕の中は、外界のどんな嵐も届かない、完璧なゆりかごだった。
◇◇◇
その頃、外界――辺境伯領は、文字通りの地獄と化していた。
禁域の森から這う這うの体で逃げ帰った騎士たちが運んできたのは、もはや「人間」としての機能を失った、ギルバートの抜け殻だった。
「辺境伯様! しっかりしてください! 辺境伯様!」
家臣たちが必死に呼びかけるが、ギルバートの焦点の合わない瞳は、虚空を彷徨うばかりだった。
アルヴィスによって「精霊の声を聞く力」と「魔力」を根こそぎ奪われた彼は、今、この世で最も過酷な孤独の中にいた。
彼に見える世界は、一切の色彩を失った、砂嵐のような灰色の静寂。
風が吹いても音は聞こえず、花が咲いても色は見えない。何より、常に彼を支えていたはずの、精霊の加護という名の「世界の息吹」が完全に消失していた。
それは、五感を奪われるよりも遥かに恐ろしい、存在の根源的な飢餓だった。
「……あ、あ……あ……」
ギルバートは自分の喉を掻きむしり、掠れた声を漏らす。
彼は今さらながらに思い知っていた。かつてリリアナが、あの屋根裏部屋で、あるいは極寒の祭壇で、どれほど懸命に精霊たちと語らい、自分の領地を「世界」に繋ぎ止めてくれていたのかを。
自分が「道具」として踏みにじっていた彼女の歌声こそが、自分を、そしてこの領地を救っていた唯一の糸だったのだ。
主君が廃人となり、土地が急激に枯れ果てていくのを見た領民たちは、家財を捨てて次々と領地から逃げ出した。
かつて誇り高き要塞だった城館は、今や蔦が枯れ、石壁が崩れ落ちる、呪われた廃墟へと変わりつつあった。
◇◇◇
そして、王都の侯爵家でも、終わりの足音が近づいていた。
「嫌……嫌よ! 鏡を見せないで!」
フェリシアの悲鳴が屋敷に響き渡る。
「聖女」と謳われた彼女の肌は、今や精霊の拒絶反応による痣に覆われ、自慢の金髪は艶を失ってパサついた藁のようになっていた。
リリアナという「本物の浄化」を失った侯爵家には、これまで蓄積されてきた一族の罪業がすべて降りかかり、邸内の空気は腐敗し、宝石さえもが泥の塊に変わっていく。
フェリシアは、自分が泥の中に突き飛ばした姉の、あの最期の悲しげな微笑みを思い出しては、夜な夜な震えていた。
次は、自分の番だ。
精霊たちが、耳元で呪いの言葉を囁いているような気がして、彼女は正気を保つことができなくなっていた。
◇◇◇
外界がどのような破滅に直面していようとも、精霊王の城には、ただ穏やかな時間だけが流れていた。
リリアナは、アルヴィスの膝の上で、深い、深い眠りの中にいた。
夢の中で、彼女はもう泥を舐めることも、氷の風に震えることもない。
ただ、自分を「世界で一番大切だ」と言ってくれる、銀色の髪の王に見守られ、色鮮やかな精霊の花々に囲まれて笑っている。
「……愛しているよ、リリアナ。お前が目覚めるたびに、私は新しい世界をお前に贈ろう」
アルヴィスは、リリアナを抱き上げたまま立ち上がり、バルコニーの先に見える「終わらない春」の景色を見つめた。
外界との道は、もう完全に閉ざされた。
彼女を傷つけた者たちには、彼女がいないという絶望を。
そして、彼女には、自分だけが与えることのできる永遠の寵愛を。
精霊王の腕の中で、愛し子は今、本当の幸福という名の、色彩豊かな夢を見ている。




