第11話:絶望の再会と、神罰の雷鳴
禁域の森の最深部。そこは本来、人間が足を踏み入れれば数分と持たず精神を病み、森の糧へと還る聖域である。
だが、ギルバート・フォン・ラドクリフは、その執念だけで境界を越えようとしていた。
「ハァ、ハァ……見つけたぞ。あそこに、歪みがある……」
ギルバートの姿は、かつての威厳ある辺境伯のそれとは程遠かった。
精霊の命を搾り取る呪具は、酷使しすぎたことでどす黒い煤を吐き出し、彼の端正だった顔は、怒りと焦燥で獣のように歪んでいる。背後に続く騎士たちも、精霊の拒絶による精神的な重圧に耐えかね、泥まみれで這いつくばっていた。
その時だった。
森を覆っていた灰色の霧が、一瞬にして銀色の光へと転じ、空間が静かに裂けた。
現れたのは、夢幻の如き美しさを纏った二人。
一人は、天上の月をそのまま織り上げたような聖衣に身を包んだリリアナ。そしてもう一人は、彼女の肩を抱き、世界そのものを支配する威圧感を放つ銀髪の青年、アルヴィスである。
「……リ、リアナ……?」
ギルバートは、目の前の光景が信じられず、呆然と立ち尽くした。
そこにいたのは、自分が泥に突き飛ばし、屋根裏に閉じ込め、道具として扱っていたはずの「呪い子」ではなかった。
内側から溢れ出すような神聖な輝き。汚れ一つない肌。そして何より、自分をかつてのように「恐怖」の眼差しで見ることのない、凛とした瞳。
「ようやく見つけたぞ、出来損ないが。その贅沢な姿は、この男をたぶらかして奪ったものか?」
ギルバートの声は、震えていた。それは恐怖ではなく、自分の「持ち物」が、自分の知らない場所でこれほどまでに輝き、手に届かない場所へ行ってしまったことへの、耐え難い屈辱による震えだった。
「さあ、大人しく戻れ。お前の義務は、私の領地で歌い、精霊を縛ることだ。このような魔物に媚びを売る暇があるなら、喉を枯らして働け!」
彼はリリアナを無理やり掴もうと、泥だらけの、煤けた手を伸ばした。
かつてのリリアナなら、その手が近づくだけで悲鳴を上げ、許しを請うていただろう。
だが。
「……ギルバート様。もう、おやめください」
リリアナの声は、風にそよぐ鈴の音のように清らかで、そして絶望的なまでに冷たかった。
彼女はアルヴィスの手に支えられ、一歩も引くことなく、かつての婚約者を真っ向から見据えた。
「私はもう、あなたの喉を潤すための水ではありません。私の歌は、私の命は……私を『人間』として愛し、慈しんでくださる方のためだけにあります。あなたの灰色の世界には、もう、私の響きが届く場所などどこにもないのです」
「黙れ! 売られた女が意志を持つな! 貴様は私の『物』だ!」
ギルバートが激昂し、腰の剣を引き抜こうとした――その瞬間。
「――汚らわしい」
アルヴィスの静かな呟きが、雷鳴となって森を震わせた。
彼が指先をわずかに動かしただけで、ギルバートを中心とした騎士団全員が、凄まじい重圧によって地面へと叩きつけられた。それは「力」というよりも、存在そのものの「格」が違うことによる、強制的な服従だった。
「我が伴侶に、その汚れた口で、指で、二度と呼び、触れようと思うな」
アルヴィスがゆっくりと歩を進める。彼が土を踏むたびに、そこから花が咲き、同時にギルバートの周囲からは、最後の一欠片の加護さえもが剥ぎ取られていく。
「お前は、リリアナを道具と呼び、その心を磨り潰した。……ならば、お前には『道具』にふさわしい最期を与えてやろう」
アルヴィスがギルバートの胸元に手を翳すと、そこから目に見えるほど濁った、煤のような魔力が引きずり出された。
「あ、あ、ああああああああっ!!」
ギルバートは絶叫した。
彼が先祖代々受け継いできた「精霊の声を聞く力」、そして「魔力」そのものを、アルヴィスは根こそぎ焼き払ったのだ。
それは死よりも残酷な刑罰。これからのギルバートには、精霊の歌声も、風のささやきも届かない。彼に見えるのは、一生、一切の彩りを失った、冷たく渇いた灰色の景色だけ。
「お前たちは、自分たちが何を捨てたのかを、一生かけて思い知るがいい。……リリアナを泥に沈めたあの日は、お前たちの世界が『死』を確定させた日だ」
アルヴィスは、這いつくばって泥を啜るギルバートを一瞥もせず、リリアナを軽々と抱き上げた。
「行こう、リリアナ。こんな汚れに、お前の視線を向ける必要はない。……これから城に戻り、お前のその耳を、私の愛の言葉だけで満たしてあげよう」
「……はい、アルヴィス様」
リリアナは、アルヴィスの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。
背後からは、ギルバートの、もはや言葉にもならない絶望の咆哮が聞こえてきたが、リリアナの心には、もう一筋の漣さえも立たなかった。
銀色の霧が再び立ち込め、二人の姿を呑み込んでいく。
境界が閉じる寸前、リリアナが見たのは、色彩を失った森の中で、自らが作り出した泥に溺れていく、かつての支配者の惨めな姿だった。
救済は終わり、ここからは、世界が「真実の聖女」を失った代償を払う、長い長い断罪の時間が始まる。




