保健室
抜け出すことは難しくない。
細身の琉生より、体を鍛えている自身の方が力があることは分かっていた。
いつも全力で抵抗できないのは、ピアノを奏でる繊細な手を傷つけるのを恐れていたからだ。
それに琉生は、幼稚園の頃の和人が初めて自分から話しかけた相手で、とても大切な幼なじみだから。
──怪我をさせるなんてできる訳がない。
だから和人は保健室に着くまで、琉生の手から抜け出すことができなかった。
◆◆◆
保健室の扉には、養護教諭の角張った字で書かれた、外出中の紙が貼られていた。
斜め後ろから見える琉生の目が、その紙を捉えて一瞬妖しく輝いた気がした。
彼は躊躇する様子もなく保健室の扉を開く。
自然の光が差し込んでいるだけの室内は薄暗い。
それでも琉生は電気を付けることなく、和人は強引にカーテンの開いたベッドの前まで連れてこられた。
ここまできて、やっと和人は事態の不穏さを無意識に察知した。
「琉生ッ! 昨日のことを怒ってるんだよな……?」
ジリッと後退りながら声を荒らげて、その後、琉生の横顔を伺うように見た。
琉生の視線が和人を捉え、冷たく瞬く。
「無理に提案し続けて悪かった。不快だっただろ? すまない」
琉生の魅力を世間に広めるのは、和人の夢だ。それは小さい頃から変わらない夢で、諦めることなどできない。
──それでも、今は琉生の気持ちを優先するべきだ。いつか説得するとしても、今じゃない。
和人は真摯に頭を下げた。
手首を掴んでいた琉生の手が緩む。
「顔を上げて」
穏やかな声に安堵しながら顔を上げた刹那。
緩んだはずの手に引っ張られ、たたらを踏みながら目前のベッドに倒れ込む。
軽い衝撃。けれど、脳内は訳の分からない事態に、処理が追いつかない。
頭や手足に絡まるシーツ。
抜け出そうと藻掻いた瞬間。
肩をベッドに押さえつけられて、思考が停止する。
脚を跨ぐように琉生の体が乗り上げてきて、制服越しに伝わってきた体温に、額や首筋、脇にかけてたらりと冷や汗が湧き上がった。
間近に見えた琉生の胸元を押し返しながら、思わず叫ぶ。
「落ち着け琉生! 俺は風邪じゃないッ」
「……俺は冷静だよ」
必死の静止は届かず、琉生の手が和人の顎に添えられ、彼の指先が唇を辿ってきた。
「ずっと言ってきたのに、なんで拒むの? こうなったのは和人のせいだから」
琉生の顔が間近に迫る。
スローモーションのように近づいてきた口許からの息遣いまで感じて、恐怖か、期待か、呼吸を呑み込んだ。
咄嗟に動かせない顔を捩り、押さえられていない方の手で琉生の口許を押し返す。
同時に考える間もなく、声を絞り出していた。
「……拒んでないっ……俺はお前のことしか、考えてない」
力を入れて細まった視界。暗がりの中、早鐘を打つ鼓動の音が耳の奥で響く。
「嘘つき」
和人の顎を捉えている琉生の手で、逸らしていた顔を強引に上向かされ、彼の痛みを含んだような目と視線が合わさった。
「嘘じゃ……っ」
「だったらッ……。俺がピアノを辞めても、和人は俺を見てくれるの?」
和人は目を見開いて、息を呑んだ。琉生の口許を押し返していた手から力が抜けた。
琉生がピアノを辞める。その言葉の破壊力に一時凍りついた。
そんな隙を突かれ、彼の唇が和人の口許を掠めるギリギリまで迫ってくる。
琉生の目が揺れ、和人の頬に一滴の雫が落ちて流れた。
その涙を浴びた瞬間。
琉生の頭に片手を添え、自分から彼の頬に伝う雫に口付けていた。
「泣くな……。弾かなくてもいいから。ピアノがなくても、お前は俺にとって大切な……」
──親友? 幼なじみ? いや、もっと言葉にならない、宝物のような……。
声を詰まらせる。
短い沈黙の後、琉生は傷ついたように目を細め、歪な微笑を浮かべた。
「……やっぱり見てない……それでも、もう、いいよ」
琉生の指が和人の唇をこじ開け、二人の口が重なりかけた刹那。
扉が開く音と共に、保健室の電気がついた。
「ん? 誰かいるのか?」
養護教諭の訝しげな声が響く。
口端に琉生の唇が掠め、遠退いた。
和人の上に乗り上げていた琉生が、ゆっくりと体を起こしベッドの横に降り立つのが、目の端に映った。
彼の重さから解放されたというのに、和人はしばらく茫洋として天井を眺めていた。
──今、俺は何をされかけたんだ……?
遅ればせながら、琉生の唇が掠めた自身の口端に指を添え、急速に上がっていく体温に、意識が徐々に遠ざかった。




