第八話 ガルの秘密と、涙の力
その日の午後、シンはガルに呼ばれて執務室へ向かった。
王宮の執務室は、廊下の奥まったところにあった。ベルトに案内してもらわなければ辿り着けない広さだ。というか、案内してもらっても途中で一回迷った。シンの不運のせいか、曲がるべき角をなぜか毎回一本間違えた。
「……右に曲がったと思ったんですが」
「左でございます」
「さっきは右って言いませんでした?」
「言っておりません」
「……そうですか」
三回目にようやく正しい廊下に出たとき、ベルトが微かに安堵のため息をついたのをシンは聞き逃さなかった。
執務室の扉をノックすると、中から「入れ」という低い声が返ってきた。
部屋は思ったより質素だった。大きな窓から光が入っていて、広い執務机の上には書類が几帳面に積まれている。棚には分厚い書物が並んでいて、壁には地図が貼られていた。
ガルは窓際の椅子に座っていた。昨日より落ち着いた装いで、上着の釦を二つ外していて、少しだけ砕けた雰囲気だった。
「来たか。座れ」
「……はい」
シンは向かいの椅子に腰を下ろした。今度のソファは頑丈そうだったので、慎重に体重をかけた。
ガルはシンをじっと見て、ゆっくりと口を開いた。
「お前に話しておきたいことがある」
「はい」
「俺の体のことだ」
シンは静かに聞く姿勢を取った。
「狼族の王は、代々ある使命を持つ。この国の均衡を守るための特別な「契約」を体に宿す。それが我々の王権の源でもあるが——その代償として、体の内側が定期的に痛む」
「……痛む、というのは」
「刃で抉られるような感覚だと思えばいい。周期は不定期だが、ひどいときは数日続く。薬も、治療師の手当ても、一時的に和らげることしかできない」
淡々とした口調だったが、シンは黙って聞いた。
「一昨日の夜、またその痛みが来ていた。橋の上に出たのも、気を紛らわすためだ。広い場所にいると、少しだけ楽になる」
「……そうだったんですか」
「そこでお前の涙が落ちてきた」
ガルの金色の目が、シンをまっすぐ見た。
「触れた瞬間、痛みが消えた。完全に。跡形もなく」
「……」
「一瞬の出来事だったが、錯覚ではない。体の感覚は、俺が一番よくわかる」
シンは自分の手のひらを見下ろした。
涙が、痛みを消した。
「……僕、そんな力持っていたんですか」
「知らなかったのか」
「全然。むしろ、僕が持っているのは不幸を呼ぶ力だって思っていたので」
「不幸を呼ぶ力と、涙に治癒の力があることは、矛盾しない」
「……そうですかね」
「両方本当のことかもしれないし、どちらかが誤解かもしれない。だから調べたい」
ガルはそこで少し間を置いた。
「お前を利用しようとしていると思っているだろう」
「……少し、思っていました」
「否定しない。俺がお前を呼んだのは、その力に興味を持ったからだ。最初は確かにそうだった」
正直な物言いだった。シンは少し目を見張った。
「だが」とガルは続けた。「それだけではなくなっている」
「……え」
「橋の上での話だ。お前の顔を見て——放っておけないと思った」
シンは言葉に詰まった。
放っておけない。
その言葉の意味を、どう受け取っていいかわからなかった。同情なのか、何か別のものがあるのか、判断できなかった。
「怖いか」とガルが聞いた。
「……怖いというより、よくわからなくて」
「何が」
「僕みたいな人間に、どうしてそんなことを言うのか」
「お前みたいな、というのは?」
「不幸で、役に立たなくて、婚約も破棄されて——」
「それが何だ」
ガルの声が、静かに遮った。
「不幸なことと、お前に価値がないことは、別の話だ」
「……でも」
「俺はお前の涙に触れて、長年の痛みが消えた。それだけでも、俺にとってお前には十分な価値がある」
「それは、力の話で」
「今は力の話をしている。だが」
ガルは少し表情を和らげた。昨夜と同じ、あの静かで温かい笑みだった。
「橋の上で、お前が笑った話はしていない」
「……笑いましたっけ、僕」
「した。俺が迷信を気にしないと言ったとき、少しだけ笑った」
「……気づいていたんですか」
「ああ」
ガルはそこで言葉を区切って、窓の外に目を向けた。
「その顔が、よかった」
シンは何も言えなかった。
頬が、じんわりと熱くなった。
「……あの」
「なんだ」
「僕、不幸体質なので。王宮にいると、いろいろ巻き込んでしまうと思います」
「今朝のソファと、カーテンのことか」
「もっといろんなことが起きると思って」
「それで帰れと言うつもりか」
「……いや、そういう意味じゃなくて」
「なら問題ない」
「問題ありますよ普通に」
「俺が問題ないと言えば問題ない」
「それが問題なんです」
ガルは平然とした顔で、書類に目を落とした。
「今日はここまでだ。夕食は一緒に取る」
「……え、王様と、ですか」
「他に誰がいる」
「や、あの、格式とかそういう話で」
「俺が決める」
「そうじゃなくて」
「シン」
「……はい」
「今夜、泣くなよ」
唐突な言葉だった。シンが目を瞬かせると、ガルは書類を見たまま続けた。
「昨夜と、一昨夜。気配でわかった。お前が夜中に泣いていたのを」
「……気配で、わかるんですか」
「狼族の聴覚を舐めるな」
「……それは、プライバシーの侵害では」
「泣くなとは言っていない。ひとりで泣くな、と言っている」
シンは黙った。
ガルはちらりとシンを見た。
「泣きたくなったら、俺を呼べ」
「……そんな、王様を」
「俺が言っている」
「……わかり、ました」
「本当にわかったか?」
「……たぶん」
「たぶん、じゃない」
「……はい」
ガルはそれで満足したように、また書類に目を戻した。シンは立ち上がって、扉に向かいながら、そっと自分の頬に触れた。
まだ、少し熱かった。




