第六話 侍従長ベルトの憂鬱
ベルト・ハウゼンは五十二歳、狼族の古参で、この王宮で三十年以上働いてきた侍従長だ。歴代の王に仕え、どんな無理難題も眉ひとつ動かさず対処してきた、自他ともに認める王宮の柱のような存在である。
しかし今日は、眉が動いた。
「……黒猫族の、次男坊を」
「そうだ」
「王宮に、住まわせると」
「当面はそうなる」
「……理由を伺っても」
「彼の持つ力を調べたい。詳しくはのちほど説明する」
ガルが短く答えるたびに、ベルトの眉間の皺が一本ずつ増えていった。廊下の隅で報告を受けているベルトの顔は、「動じていないが実は相当動じている」という表情の典型例だった。
「陛下。申し上げにくいのですが」
「言え」
「黒猫族は、その、一部の者に——」
「迷信だ」
「……迷信であることは重々承知しておりますが、しかし使用人の中には気にする者もおりまして」
「俺が気にするなと言えば気にしない」
「……陛下が仰ることが全てではありますが」
「ベルト」
「はい」
「お前は俺が三歳の頃から知っているな」
「……はい」
「俺が根拠のないことで人を遠ざけるか?」
ベルトは少しの間黙った。
「……遠ざけません」
「そういうことだ」
それで話は終わりとばかりに、ガルは廊下を歩き出した。ベルトは深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出して、しっかりとした足取りでその後をついていった。
シンが通された客間の前まで来ると、中から微かに「あ」「っ」「あ゛」という声が聞こえた。
ベルトとガルは顔を見合わせた。
扉を開けると、シンが窓辺のカーテンに絡まって身動きが取れなくなっていた。どうしてそうなったのかまったく意味がわからないが、両腕と尻尾がカーテンに巻き込まれて、もがけばもがくほど深みにはまっているらしかった。
「あ、あの、ちょっと、これ、どうしたら」
「……」
ベルトは目の前の光景を、三秒間、無言で見つめた。
「……どのような経緯でそうなりましたか」
「窓から庭が見えたので、カーテンを開けようとしたら、なんか、引っかかって」
「なぜ尻尾まで絡まっているのですか」
「外そうとしたら……」
「なぜ腕が二本とも」
「……わかりません」
ベルトは振り返って、ガルを見た。
ガルは腕を組んで、至って落ち着いた顔でシンを見ていた。
「ベルト、解いてやれ」
「……かしこまりました」
ベルトはカーテンのそばにしゃがみ込み、絡まった布を丁寧にほどき始めた。長年の侍従長経験でも、カーテンから人を救出したのは今日が初めてだった。
「すみません、ありがとうございます……」
「いいえ」
シンが申し訳なさそうにしょんぼりしている。黒い耳がぺたんと伏せられていて、尻尾も力なく垂れ下がっていた。ベルトはその様子を横目で見ながら、黙々と布をほどいた。
——悪い子ではなさそうだ。
迷信がどうこうというより、ただただ、不運な子だというのは確かだった。
「あなた様のお部屋はこちらではございません」とベルトは言った。「別にご用意しております。ご案内いたしますので、まずはこちらをお飲みください」
新しいお茶が運ばれてきていた。シンはそれを両手で受け取って、一口飲んだ。
そして。
熱かったのか、盛大にむせた。
お茶が少しこぼれて、ベルトの上着の袖にかかった。
「っ、す、すみません!!」
「……いいえ」
ベルトは袖をさっと拭きながら、もう一度深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
——これは、大変な方をお迎えしてしまった。
そして振り返ると、ガルがこれ以上ないくらい静かな顔で、しかし目の端がほんの少し柔らかくなった表情で、シンのことを見ていた。
ベルトは三十年の侍従長経験で初めて確信した。
——陛下は、この方が、お気に入りだ。
それだけはっきりわかって、ベルトはもう一度、今度はもっと長く、深く、息を吸い込んだ。
「では、シン様。お部屋へご案内いたします」
「あ、はい。……あの、ベルトさんって言うんですよね」
「ベルト・ハウゼンと申します」
「ベルトさん、なんか、すごく大変そうですね」
「……いいえ」
「顔に書いてありますよ」
ベルトは三秒間、間を置いた。
「……それが私の平常運転でございます」
シンはきょとんとしたあと、小さく笑った。
ベルトはそれを見て——まあ、確かに悪い子ではないな、と思った。
不運ではあるが。非常に。著しく。
しかし悪い子ではない。
そう、ひとまず結論づけることにした。




