第五話 王宮の洗礼
王宮の中は、シンが想像していたよりずっと広かった。
というより、広すぎた。
案内の兵士に連れられて廊下を歩きながら、シンはきょろきょろと辺りを見回した。天井が高い。床は磨き上げられた石畳で、歩くたびに足音が響く。壁には歴代の王たちと思しき肖像画が並んでいて、どれもこれも圧が強い。
「こちらでございます」
通された部屋は客間だった。シンの家のリビングより広い。調度品がひとつひとつ丁寧に磨かれていて、窓からは手入れの行き届いた庭園が見えた。
「ガルディアス陛下はのちほどいらっしゃいます。しばらくこちらでお待ちください」
兵士が下がると、シンは部屋にひとり残された。
「……広い」
ぽつりと言って、革張りのソファに恐る恐る腰を下ろす。ひどくいい沈み心地で、思わず背もたれに体を預けてしまった。
その瞬間。
ぐらっ、と、ソファが傾いた。
「ひっ」
背もたれが突然ゆっくりと後ろへ倒れ始め、シンはバランスを崩して勢いよく転がり落ちた。背中と後頭部が絨毯に打ちつけられて、ごん、という情けない音が部屋に響いた。
「……いた」
天井を見上げながら、シンはぼんやりと考えた。脚がひとつ、古くなっていたらしい。自分が座ったせいで折れたのだろう。
「不幸体質、健在」
ため息をついて起き上がろうとした瞬間、部屋の扉が開いた。
「失礼いたします、お茶をお持ちし——」
入ってきた給仕の青年が、床に転がっているシンと、傾いたソファを見て固まった。
「あ、ええと、これは」
「ソファが……」
「……申し訳ございません、すぐに」
青年が慌てて近づいてきた。シンも立ち上がろうと手をついた。その手が、絨毯の上に置いてあったお盆の端を押してしまった。
お盆がひっくり返った。
お茶が盛大にこぼれた。
シンも青年も、揃ってびしょ濡れになった。
「…………」
「…………」
沈黙。
「……ごめんなさい」
「い、いえ、私こそ……」
二人がそんな状況で固まっていたところへ、廊下から低い声が響いた。
「何の音だ」
扉が開いて、ガルが入ってきた。
昨夜の夜とは違い、今日は王としての装いをしていた。濃紺の上着に銀の刺繍、整えられた銀灰色の髪。昨夜でも十分な威圧感だったが、昼間見るとさらに迫力があった。
その目が、床に広がったお茶と、濡れた給仕の青年と、床の上に半分座り込んでいるシンを順番に見た。
「……来て早々、何をした」
「ソファが壊れました」
「ソファが?」
「脚が折れて転んで、起き上がろうとしたらお茶をひっくり返しました」
ガルは少しの間、その状況を見渡した。それから——小さく、笑った。
「早速か」
「……すみません」
「謝らなくていい」
ガルは給仕の青年に「着替えてこい」と短く告げ、青年が一礼して退室するのを見届けてから、シンに近づいた。大きな手が差し伸べられる。
「立てるか」
「……立てます」
「素直に掴め」
言われるまま、シンはその手を掴んだ。引き上げられる力が思ったより強くて、よろめいてガルの胸に額をぶつけた。
「っ、す、すみません」
「いい」
ガルはシンを軽く離して、頭の天辺を見た。
「怪我はないか」
「……ないです。たぶん」
「たぶん、か」
「僕の場合、怪我しても気づかないことがあって」
「それは問題だな」
ガルはまっすぐシンを見下ろして、静かに言った。
「侍従長を呼ぶ。王宮での生活のことを説明させる。しばらくここにいてもらうことになるから」
「しばらく……どのくらい?」
「まだわからん。お前の力のことを調べてからだ」
「……あの、一応聞いておきたいんですが」
シンは恐る恐る、ガルを見上げた。
「僕、監禁されてるわけじゃないですよね?」
ガルが一瞬、真顔になった。
「……監禁?」
「いや、急に連れてこられたから……その、嫌だったら帰っていいんですよね、って」
「帰っていい」
「……え、本当に?」
「帰っていいが——帰りたいか?」
問われて、シンは口をつぐんだ。
帰りたいか。帰って、何がある。婚約破棄されたあの家に。腫れ物扱いされるあの日常に。
「……帰りたくない、わけじゃないですけど」
「では、しばらくいろ」
「それ、論理がおかしくないですか」
「おかしくない」
ガルは事もなげに言って、踵を返した。
「侍従長を呼ぶ。待っていろ」
「……はい」
シンは濡れた服の裾を見下ろしながら、小さくため息をついた。
——なんだろう、この人。
怖いのか怖くないのかよくわからない。威圧的なのに、なぜかそこまで嫌じゃない。
それが、少し——不思議だった。




