第三話 橋の上の、はじまり
王都の外れに、古い石橋があった。
川幅はさほど広くないが、水の流れは穏やかで、夜になると橋の上から街の灯りが水面に映って揺れる。人通りが少なく、シンが子どもの頃からこっそり来ていた場所だった。
深夜、シンは誰にも告げずに家を抜け出した。
雨はすでに上がっていた。代わりに夜風が少し冷たくて、シンは薄手の上着の前を合わせながら橋の中ほどまで歩き、欄干に肘をついた。
川の水音だけが、静かに響いている。
「……はあ」
ため息をつく。今日何度目かわからない。
頭の中で、今日あったことがぐるぐると回り続けていた。ルカの顔。母の声。アルの困ったような目。距離を置いたおじさんの横顔。
全部、別に、知っていたことだ。
シンが不幸を呼ぶことも。そばにいると損をすることも。だから近づかない方がいいことも。
わかってる。全部わかってる。
「……僕って、何のために生まれてきたんだろ」
誰もいない夜の橋に、声が溶けていく。街灯がひとつ、暗闇の中でぽつりと灯っていた。その光がじわりと滲んで見えた。
ああ、泣いている。
今度は拭わなかった。ここには誰もいない。泣いたって誰にも見られない。不運を呼んだとして、自分が困るだけだ。
シンは欄干に頬杖をついて、ぽろぽろと静かに泣いた。声は出なかった。涙だけが次々と溢れて、頬を伝って、欄干の石の上に丸い染みを作った。
そのうちの一滴が、欄干の端からこぼれ落ちた。
その涙を——誰かの指が、空中で受け止めた。
「…………っ!?」
シンは勢いよく顔を上げた。
いつの間にそこにいたのか、欄干の外側——橋の下へ続く石段の途中に、一人の男が立っていた。背が高い。簡素だが質の良い服を着ている。銀灰色の髪が夜風に揺れていて、瞳は——暗がりの中でも、金色に光って見えた。
狼族だ。とっさにそれだけわかった。頭の上の大きな耳と、背後にある太い尻尾。がっしりとした体格と、全身から滲み出すような静かな威圧感。
男はシンの涙を受け止めた指先を、じっと見つめていた。
「……お前の涙、もらっていいか」
低く、静かな声だった。
「は……え、あ——」
「長年、体の内側が痛んでいた。ここ数年はとりわけひどかった。それが今——嘘みたいに消えた」
男は指先から顔を上げて、シンをまっすぐ見た。金色の目が、真正面からこちらを射抜く。
「お前が泣くたびに、俺の体は楽になるのか」
「な、何を言ってるんですか、突然……!」
「事実を言っている」
「いや、そんなこと急に言われても……っていうか、あなた誰ですか!!」
「ガルディアス」
「……は?」
「ガルディアス・ヴァルクロウ。——狼族の王だ」
シンの頭が、一瞬、真っ白になった。
王都の外れの古い石橋。深夜。泣いているところ。
そこに現れた、狼族の王。
「…………え」
「泣いていたな。何があった」
「いや、何があったって……そんな、いきなり……」
「答えたくなければいい」
ガルはシンの困惑などまるで意に介さず、石段を上がって橋の上に立った。改めて見ると、シンより頭ひとつ以上背が高い。並んで立つと、その存在感が肌を圧した。
「お前の名前は」
「……シン。シン・フェルノワールです」
「フェルノワール。黒猫族か」
「そうです。それが何か」
「不吉だの何だの言われる一族だな」
「……知ってます」
「俺は気にしない」
さらりと言って、ガルは川の方へ目を向けた。シンはぽかんとした顔で、その横顔を見た。
気にしない、と。
この男は今、なんでもないことのように——そう言った。
「な、んで……」
「何がだ」
「気にしないんですか。黒猫族が不吉だって、みんな言うのに」
「迷信だ」
「でも」
「迷信に振り回されるほど暇じゃない」
シンは絶句した。
ガルはシンの方に顔を向けて、金色の目を細めた。
「それより——また泣きそうな顔をしているな」
「……してません」
「している」
「……してたとしても、関係ないでしょう」
「そうでもない」
ガルはそう言って、静かに笑った。
初めて見る、柔らかい笑みだった。威圧感はそのままなのに、その笑みだけが不思議なほど温かかった。
「お前の涙は、俺にとって価値がある。だから——お前のことが、気になる」
「そ、それは、僕が役に立つってことで……」
「今はそうだ。だが」
ガルはシンの濡れた頬を、大きな手でまっすぐに拭った。
「今後どうなるかは、まだわからん」
シンは、固まった。
頬に残る、大きな手の温もり。その感触があまりにも——あまりにも、久しぶりで。
鼻の奥が、またじんとした。
「……泣くなよ」
「泣いて、ないです」
「泣いている」
「……泣いてません」
「涙が出ている」
「それは……っ」
言葉が続かなかった。
シンはぐっと唇を噛んで、欄干をきつく握った。
——どうして、この人は。
会ったばかりで、何も知らないはずなのに。どうしてこんなに、まっすぐに見てくるのだろう。
「明日、迎えをよこす」
「え?」
「王宮に来い」
「は……!? な、なんでですか!?」
「お前の力のことを、もっと調べたい。それに——」
ガルはもう一度、シンを見た。
「今夜のような顔を、またひとりでさせたくない」
それだけ言って、ガルは踵を返した。
夜の暗闇の中に、銀灰色の後ろ姿が消えていく。
シンはしばらく、その場に呆然と立ち尽くしていた。
頬に、まだ温もりが残っていた。




