第二十七話 ダーウィン侯爵の最後と、平和な朝
ダーウィン侯爵の件は、それから二週間後に決着した。
連合を組んだ小国二カ国が、ガルの外交交渉によって侯爵から離れた。ガルはシンの守護の涙によって体の痛みが格段に安定しており、以前より長時間の交渉も難なくこなせるようになっていた。
孤立したダーウィン侯爵は、最終的に隣国の仲裁に従うことを選んだ。
戦にはならなかった。
ズィークがその結果を執務室で報告した時、ガルはいつも通りの落ち着いた顔で「そうか」と言った。
「陛下、喜んでください」
「喜んでいる」
「顔が全く変わっていません」
「内心喜んでいる」
ズィークは呆れた顔をして、シンを見た。シンはソファに座って本を読んでいたが、二人のやりとりを聞いて顔を上げた。
「ガルさん、良かったですね」
「ああ」
「戦わずに済んで」
「それが一番良い結果だ」
「喜んだ顔を見せてください」
「している」
「していないです」
「口の端が上がっているだろう」
「微妙すぎてわかりません」
「これが俺の喜んでいる顔だ」
ズィークがため息をついた。
「……シン、お前が来てから陛下の顔が少し変わったと思っていたが、基本はそんなに変わっていなかった」
「でも、北の庭ではちゃんと笑いますよ」
「それは見たことがない」
「秘密です」
ガルが、シンを見た。
「秘密にしなくていい」
「でも、ズィークさんに知られると恥ずかしいので」
「雲を見てズィークに似ていると言ったことか」
「言わないでください!」
ズィークが、目を丸くした。
「俺が雲に似ていると?」
「ガルさんが言ったんです、僕じゃないです」
「俺は言った」
「なんで認めるんですか!」
ズィークは数秒間、固まっていた。
それから、低く短く笑った。
シンは初めて聞いた気がした、ズィークの笑い声を。
「……ガル、お前らしくない話だな」
「お前に似た雲があったのは事実だ」
「俺は雲じゃない」
「丸くてごつい」
「やめろ」
「シンが言った」
「全部ガルさんが言いました! 僕は存在感があると言っただけです!」
「ガルに似た雲は何だ」とズィークが聞いた。
シンは少し考えて、答えた。
「一番上にある、でかい雲です」
「でかい雲か」
「存在感があって、他の雲と離れていて」
「……それはわかる気がする」
「でしょ」
ガルは何も言わなかったが、耳の先がわずかに赤くなっていた。
シンだけが気づいた。
絶対に言わないでおこうと思った。
今度、ふたりきりの時に言おうと決めた。
________________________________________
その夜、シンは一人で北の庭に出た。
月明かりが庭を照らしていて、ルーナフラワーが白く光っていた。
最初にこの庭に来た日から、ずいぶん時間が経った気がした。
でも、実際にはそんなに経っていない。
それなのに——あの頃と、今の自分が、全然違う気がした。
橋の上で一人泣いていた夜のことを、思い出した。
あの夜のシンは、自分には何もないと思っていた。不幸体質で、婚約破棄されて、家族に疎まれて、居場所がなかった。
今は。
「何を考えている」
声がして振り返ると、ガルが来るところだった。
「ガルさん、来ていたんですか」
「ベルトからお前が庭に出たと聞いた」
「ベルトさん、ちゃんと報告しているんですね」
「心配性なんだ、あいつは」
「でも、ありがたいです」
ガルがシンの隣に並んだ。
二人で、ルーナフラワーを見た。
「何を考えていた」
「最初にここに来た日のことを」
「雲を見た日か」
「そうです。あの日から、いろんなことがあって」
「ああ」
「最初は、正直不安しかなかったです。ここにいていいのかって、ずっと思っていた」
「今は?」
シンは少し考えた。
「今は——いていいって、思えます」
「そうか」
「ガルさんが、ずっと言ってくれたので。迷惑かけても、泣いても、やらかしても——それでもいいって。それがだんだん、本当のことになってきた気がします」
ガルは黙って聞いていた。
「……自分が、不幸体質だとは思っています。これからも、変わらないと思います」
「変わらなくていい」
「でも、それだけじゃないとも思えるようになって」
「どういう意味だ」
「不幸体質だけど、笑えるとか。迷惑かけるけど、好きな人がいるとか。泣き虫だけど、誰かを守れることもあるとか」
シンは花壇を見ながら、静かに言った。
「そういう、不幸じゃない部分も、ちゃんとあるんだって。やっと、思えてきました」
ガルは少しの間、黙っていた。
それから、静かに言った。
「よかった」
「はい」
「ずっと、そう思ってほしかった」
「時間かかりました、だいぶ」
「構わない」
「ガルさんは気長ですよね」
「お前を待つことは苦ではなかった」
シンは、ガルを見た。
月明かりの中の横顔が、穏やかだった。
「ガルさん」
「なんだ」
「さっき、ズィークさんに言わなかったんですが」
「何を」
「耳の先、赤くなっていましたよ。雲の話のとき」
ガルが、シンを見た。
「……見ていたのか」
「見ていました」
「言うな」
「言いました」
「言わなくていいと言っている」
「でも、かわいかったので」
ガルの耳が、また赤くなった。
「……かわいくない」
「かわいいです」
「やかましい」
「ガルさんがかわいい」
「もう一度言ったら」
「言います、かわいいです」
ガルはシンの頭を引き寄せて、胸に押しつけた。
「……黙れ」
「んー、でも」
「黙れ」
シンは笑いながら、ガルの胸に額をくっつけた。
心臓の音が、聞こえた。
速かった。
「……ガルさんの心臓、また速いです」
「聞こえているなら黙れ」
「かわいいですよ、本当に」
「もう話しかけるな」
「はい」
でも、シンはまだ笑っていた。
ガルも、シンには見えない角度で、口の端を上げていた。
月明かりの下で、ルーナフラワーが静かに揺れていた。




