エピローグ 黒猫と狼王の、ある朝のこと
それから、半年が経った。
シンの不幸体質は、相変わらずだった。
今朝も、寝台から落ちた。
「っ、いた」
床に転がったまま天井を見上げて、シンはため息をついた。毎朝のことなのに、毎朝懲りない。自分でも呆れる。
起き上がって顔を洗って、着替えて、鏡を見た。
黒い耳が、鏡の中でぴんと立っていた。
半年前には気づかなかったが、最近、自分の顔を見ると思うことがある。
——あ、笑っている。
別に意識したわけじゃない。ただ、鏡の中の自分が、自然と笑っているのだ。
「シン様、おはようございます」
扉の外からベルトの声がした。
「おはようございます、ベルトさん」
「今朝は落ちましたか」
「……なんでわかるんですか」
「音がしました」
「……はい、落ちました」
「左側に落ちましたか」
「右側です」
「昨日も一昨日も左でしたので、今日はどちらかと」
「なんで把握しているんですか」
「学習しました」
「半年かけて?」
「半年かけて」
シンは笑いながら扉を開けた。
ベルトが盆を持って立っていた。今日も背筋がぴんと伸びていて、相変わらずきっちりした人だった。白髪は、確かに少し増えていた。でも、顔はなんとなく、以前より穏やかな気がした。
「今日の予定は?」
「午前中はアル様がいらっしゃいます。午後はガルディアス陛下と外の市場へ」
「市場、楽しみですね」
「シン様が市場に行かれると、だいたい何かが起きます」
「気をつけます」
「毎回そう仰って毎回起きています」
「今日こそは」
「……願っております」
ベルトは深々と一礼して、盆をテーブルに置いた。
シンは朝食に手をつけながら、窓の外を見た。
今日も、天気が良かった。
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アルが来たのは昼前だった。
久しぶりに見るアルの顔は、手紙で想像していたより明るかった。シンを見た瞬間、少し目を細めて、それから笑った。
「元気そうだな、シン」
「兄さんこそ。元気でしたか」
「まあな。——王宮、すごいな。でかすぎる」
「迷子になりますよ、慣れるまで」
「お前は今も迷子になるだろう」
「なります」
「変わってないな」
「変わっていないです」
アルは笑って、シンの頭をぽんと叩いた。
幼い頃によくされていた仕草だった。それを覚えていてくれたのかどうかはわからなかったが、シンにはなんとなく、わかっていてやってくれた気がした。
「お母さんは元気ですか」
「元気だ。手紙のこと、最初は黙っていたけど——先日、シンは幸せにしてもらっているのかしら、って言っていた」
「……そうですか」
「返事しなかったのを、気にしていたみたいだよ」
「そうか」
シンは少し考えて、また手紙を書こうと思った。今度は母宛に、もう少し丁寧に。
「ガルディアス王には挨拶できるか」
「もちろん。ガルさん、会いたがっていましたよ」
「あの王が?」
「はい」
「どんな人だ」
「怖そうに見えるけど、雲を見て人に例えます」
「……それは、どういう」
「会えばわかります」
アルは半信半疑の顔をしたが、それ以上聞かなかった。
昼食を一緒に食べて、そのあとガルに紹介した。
ガルはいつもの落ち着いた顔でアルと向き合い、短く、しかしはっきりと言った。
「シンのことは俺が生涯守る。安心してほしい」
アルはしばらく黙って、それから深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
シンはその場で目がじんとして、慌てて天井を見上げた。
ガルがそれを横目で見て、小さく口の端を上げていた。
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午後、市場に出た。
ガルは変装——といっても、フードをかぶっただけだったが——で、シンの隣を歩いた。
市場は賑やかだった。色んな種族の人が行き来して、食べ物の匂いと話し声が混ざり合っていた。
シンは目移りして、あっちを見たりこっちを見たりした。
「シン、前を見て歩け」
「あ、あの屋台、いい匂いしますよ」
「前を」
「ガルさん、あの花売りのところ見ていいですか」
「いいが、前を」
「はい——っと」
石畳の段差に足を取られて、シンが躓いた。
倒れる前に、ガルの手が腕を掴んだ。
「……だから言った」
「す、すみません」
「怪我は」
「ないです」
「そうか」
ガルはシンの腕を掴んだまま、そのまま手を握った。
「……歩く時は、手を繋ぐ」
「え」
「転ばないように」
「でも、市場で王様が」
「変装している」
「フードだけですよ」
「誰もわからない」
「わかりますよ、体格で」
「わからない」
「わかります」
「わからないと言っている」
シンは少し呆れたが、ガルの手を握り返した。
大きくて、温かい手だった。
「……転んだら引っ張っていてください」
「わかっている」
「転んでも、怒らないでください」
「怒らない」
「本当ですか」
「転ばせないから怒る必要がない」
「転ぶかもしれないですよ」
「転ばせない」
「自信満々ですね」
「お前の転び方は把握している」
「……怖い把握の仕方ですね」
「半年かけて学習した」
「ベルトさんと同じこと言いますね」
「似た者同士だ、あいつとは」
シンはくすくすと笑った。
市場の人混みの中で、二人で手を繋いで歩いた。
花売りの屋台で、シンはルーナフラワーに似た花を見つけた。
「ガルさん、これ」
「ああ」
「北の庭のに似ている」
「買うか」
「いいんですか」
「お前が欲しいものを買う」
「じゃあ、一本だけ」
「一本でいいのか」
「一本で十分です」
ガルは花売りの老人から花を買って、シンに渡した。
シンはその花を受け取って、少し眺めた。
「……綺麗だな」
「ああ」
「ガルさんの北の庭のより、少し小さいですけど」
「それでいい」
「なんで」
「お前が持つと、ちょうどいい」
シンは、その言葉の意味を考えた。
ちょうどいい。
「……褒めていますか、それ」
「褒めている」
「ありがとうございます」
ガルがまた、手を握り直した。
「行くか」
「はい」
二人でまた、市場の人混みの中を歩いた。
シンは片手に花を持って、もう片方の手でガルの手を握っていた。
誰もガルに気づかなかった。
シンの方は、黒い耳のせいでちらちらと見られた。
でも——今日は、その視線が怖くなかった。
むしろ少し、堂々としていた。
「シン」
「はい」
「今日、楽しいか」
「楽しいです。すごく」
「そうか」
「ガルさんは」
「俺も」
「楽しそうに見えないですよ」
「内心、楽しい」
「内心じゃなくて、顔に出してください」
「これが俺の楽しい顔だ」
「口の端が上がっていますよね、今」
「……そうか」
「わかりますよ、もう。ガルさんの顔」
ガルは少しの間、黙った。
「半年で、ずいぶんわかるようになったな」
「ガルさんが、だんだん隠さなくなったんだと思います」
「そうか」
「はい」
「……お前のせいだ」
「褒めていますか」
「褒めている」
シンは笑った。
花を持った手を、少し上げた。
夕方の光が、花びらを透かして、きらきらと光った。
「……ガルさん」
「なんだ」
「好きです」
ガルは少し間を置いた。
「……市場の真ん中で言うな」
「思ったので」
「心臓に悪い」
「ガルさんも言ってくれますか」
「……人混みの中では言わない」
「人がいない時に言ってくれますか」
「……ああ」
「楽しみにしています」
「やかましい」
でも、ガルの手が、少し強くなった。
シンはそれがわかって、また笑った。
夕方の市場を、二人で歩いた。
不幸体質の黒猫と、狼族の王。
どこからどう見ても、釣り合わないような二人が、手を繋いで歩いていた。
でも——シンには、もうそれが気にならなかった。
釣り合うとか、相応しいとか、そういうことより。
ガルの手が温かいことの方が、ずっと大事だった。
「ガルさん」
「なんだ」
「王宮に帰ったら、また北の庭に行きませんか」
「行こう」
「ルーナフラワーを見ながら、雲の話をしたいです」
「今日は夜だから雲は見えない」
「じゃあ、月の話を」
「月か」
「ガルさんに似た月を探します」
「どんな月だ」
「でっかくて、明るくて、存在感がある月です」
ガルは少し、息をついた。
「……お前は昔から、そういうことを言うな」
「本当のことです」
「照れるだろう」
「照れてほしくて言っています」
「やかましい」
でも、また耳が赤くなっていた。
シンはそれを見て、心の中でそっと笑った。
これから先も、きっとこんな日々が続くのだろうと思った。
転んで、こぼして、迷子になって、やらかして。
それでも、ガルが隣にいて。
ベルトが呆れながら助けてくれて。
ズィークがぶっきらぼうに守ってくれて。
子どもたちが笑ってくれる。
不幸体質は、治らない。
でも——不幸じゃない。
シンは夕方の空を見上げた。
橋の上で泣いていたあの夜と、同じ空だった。
でも今は、全然違う景色に見えた。
「……ガルさん」
「なんだ」
「王宮に連れてきてくれて、ありがとうございました」
「礼を言うな」
「言います」
「強引に連れてきた」
「それでも、ありがとうございます」
ガルは少しの間、黙った。
「……どういたしまして」
その言葉が、夕方の風に乗って、シンの耳に届いた。
シンは、笑った。
花を持った手を、ぎゅっと握って。
ガルの手を、もう少しだけ、強く握り直した。
夕暮れの市場を、二人の影が並んで伸びていた。




