第二十五話 変わること、変わらないこと
番になったことで、王宮の中で何かが大きく変わったかというと——正直、あまり変わらなかった。
シンは相変わらず朝から転んだ。
朝食でこぼした。
廊下で迷子になった。
厨房に迷い込んだ。
「シン様、今日はどこへ行かれようとしていたのですか」
「書庫です」
「書庫は逆方向でございます」
「……そうですか」
「今日で三回目でございます、同じ間違いが」
「すみません」
ベルトがため息をついた。長いため息だったが、今日はなぜか、少し柔らかい音がした。
「……ご報告がございます」
「はい」
「番になられたこと、王宮中に知れ渡っております」
「そうですか」
「使用人たちは大変喜んでおります」
「え、喜んでいるんですか」
「はい」
「迷惑かけてばかりなのに」
「シン様がいらっしゃると、王宮が賑やかになると言っております」
「それは褒めていますか?」
「褒めております」
シンは少し目を丸くした。
ベルトが珍しく、はっきりと「褒めている」と言った。
「……ありがとうございます」
「それと」とベルトは真顔のまま続けた。「陛下が、今朝から機嫌が非常によろしいです」
「そうなんですか」
「書類の処理速度が、通常の一・五倍でございます」
「それは、どういう」
「嬉しいのだと思われます」
「……ガルさんが」
「はい」
シンは少し、照れくさくなって俯いた。
「それと、ズィーク様も」
「ズィークさんも?」
「今朝の騎士団の朝礼で、いつもより声が大きかったとのことです」
「それ、関係ありますか」
「ズィーク様なりの喜び方かと」
シンはくすりと笑った。
「ベルトさんは?」
「私は」とベルトは少しの間を置いた。「……安心しております」
「安心?」
「シン様が、ここに居場所を持たれたことを」
シンは、じんとした。
ベルトが「安心している」と言った。堅物で、いつも真顔で、ため息の達人のベルトが。
「……ベルトさん」
「はい」
「ありがとうございます。ずっと、お世話になって」
「いいえ」
「これからも、いろいろやらかすと思いますが」
「存じております」
「白髪が増えるかもしれませんが」
「……それは、甘んじて受け入れます」
「本当にすみません」
「いいえ」
ベルトはきっちりと一礼して、廊下を歩き出した。
その背中が、いつもよりほんの少しだけ、軽く見えた。
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その日の夕方、中庭で子どもたちと遊んでいると、ズィークがやってきた。
「シン」
「ズィークさん、朝礼の声が大きかったって聞きました」
「……誰から聞いた」
「ベルトさんから」
「あいつは余計なことを言う」
「喜んでくれていたんですよね」
ズィークは腕を組んで、露骨にそっぽを向いた。
「俺はただ、ガルが馬鹿をやらかすかと思って心配していただけだ」
「馬鹿って」
「お前のことを好きなのはずっとわかっていたが、あいつは不器用だから変なことを言って台無しにするんじゃないかと」
「……ガルさんって、不器用なんですか」
「めちゃくちゃ不器用だ」
「そうは見えないですけど」
「お前の前では素直になれているんだろう」とズィークは少し目を細めた。「それが——まあ、よかったと思っている」
「ズィークさん」
「なんだ」
「最初、怖かったんですよ」
「知っている」
「でも今は全然怖くないです」
「それは困る。少しは怖がってくれないと、俺の立場が」
「ズィークさん、根はとても優しいので」
「優しくない」
「優しいです」
「……うるさい」
子どもたちがズィークを見つけて、わあっと駆け寄ってきた。
「ズィークだー!」
「おい、待て、今は」
「肩車して!」
「騎士団長を何だと思っている」
「強いひとー!」
ズィークは盛大に嫌そうな顔をしたが、子どもたちが群がっても追い払わなかった。渋い顔をしながら、一番小さい子を片腕で持ち上げた。
子どもが「たかーい!」と声を上げた。
シンはその光景を見て、笑った。
ズィークがシンを横目で見た。
「笑うな」
「でも」
「笑うな」
「ズィークさんって、子どもに弱いですね」
「弱くない」
「子どもに囲まれて、嬉しそうな顔していますよ」
「していない」
「しています」
「……うるさい」
でもズィークは、子どもを下ろさなかった。
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夜になって、ガルの執務室に行くと、ガルはいつも通り書類を見ていた。
シンが入ってくると、顔を上げた。
「来たか」
「はい。今日の仕事、捗りましたか」
「なぜ知っている」
「ベルトさんが教えてくれました。一・五倍の速度だって」
ガルが、微かに眉をひそめた。
「あいつは余計なことを言う」
「ズィークさんも同じこと言っていました」
「似た者同士だ」
シンは笑いながら、いつものソファに腰を下ろした。
ガルはしばらく書類を見ていたが、やがてペンを置いた。
「シン」
「はい」
「今日はどこかぶつけたか」
「朝に廊下の柱に肩をぶつけました」
「見せろ」
「大したことないですよ」
「見せろ」
シンはしぶしぶ肩を見せた。ガルが確認して、赤くなっているのを見て、眉間に力を入れた。
「廊下の柱は逃げない」
「僕が避ければいいんですけど、気づかなくて」
「目を前に向けて歩け」
「気をつけます」
「毎日言っている」
「毎日やらかしています」
「知っている」
ガルはそれでも、丁寧に肩の赤い部分を確認した。怪我の手当てに慣れた手つきで、押したり動かしたりして確認した。
「骨には異常ない」
「わかりました」
「明日も痛かったら言え」
「はい」
ガルがシンの隣に座った。
窓の外に、夜の景色が広がっていた。
「ガルさん」
「なんだ」
「今日、ベルトさんとズィークさんが、二人とも喜んでくれていました」
「そうか」
「こんなに喜んでもらえると思っていなかったので、少し驚きました」
「なぜ驚く」
「みんな、僕のことを迷惑だと思っていると思っていたので」
「迷惑と、嫌いは、別の話だ」
「……そうですね」
「ベルトもズィークも、お前のことが嫌いだったことは一度もない」
「どうしてわかるんですか」
「ベルトはお前が来てから、昼食の時間を必ず守るようになった。以前は仕事で飛ばすことも多かった。お前のことが心配で、様子を確認しに行くためだ」
シンは目を丸くした。
「……知らなかったです」
「ズィークは騎士団の訓練時間を一時間早めた。お前が中庭で子どもたちと遊ぶ時間に、近くにいられるようにするためだ」
「そんな」
「お前はよく人を見ているが、自分が見られていることには鈍い」
シンは言葉に詰まった。
知らなかった。
二人がそんなふうに気にかけてくれていたなんて。
「……ガルさんは」
「俺は」
「ガルさんも、そういうことをしてくれていましたか」
ガルは少し間を置いた。
「お前が夜に眠れない時、廊下に気配があった。俺が見回りの経路を変えたのは、そのためだ」
「……見回りの経路を」
「お前が安心できるなら、それでいいと思った」
シンは俯いた。
目の奥が、じんとした。
「みんな、こんなに」
「こんなに、なんだ」
「……気にかけてくれていたなんて」
「当たり前だ」
「当たり前じゃないです、僕には」
「これからは当たり前にしろ」
シンは、顔を上げた。
ガルがまっすぐシンを見ていた。
「お前は当たり前に、大切にされていい。それだけのものを、持っている」
シンは唇を引き結んだ。
泣くまいと思ったが、目の端から一筋、零れた。
「……また泣いている」
「嬉しいので」
「嬉しい涙ばかりだな、最近」
「ガルさんのせいです」
「俺のせいにするな」
「ガルさんのせいです」
ガルは小さく息をついて、シンの頭を引き寄せた。
肩に、そっと寄りかからせてくれた。
シンはそのまま、目を閉じた。
暖炉の音が聞こえた。
遠くで風が吹いていた。
ここにいる。
ここにいていい。
それが今は——何よりも、確かなことだった。




