第二十二話 戦いの後と、言えない気持ち
戦闘が終わったのは、夕暮れ時だった。
ダーウィン侯爵の先遣隊は、シンの涙が起こした光の後から急速に統率を失い、ズィーク率いる騎士団がそれを一気に押し返した。完全な決着ではないが、今回の侵攻は退けた。そういう結果だった。
王宮に戻ったガルは、すぐに負傷した騎士たちの状況確認に動いた。シンはベルトに連れられて、先に自室へ戻った。
部屋に戻ると、ベルトがお湯と布を持ってきた。
「どこか痛みはありますか」
「ないです。本当に怪我はしていないので」
「転ばれましたね」
「……見ていたんですか」
「廊下のあちこちで報告が上がりました」
「そうですか」
ベルトは膝を確認して、擦り傷があるのを見つけて、無言で手当てをした。シンはされるがままにしていた。
「シン様」
「はい」
「今日のことは——無茶でございました」
「わかっています」
「わかっていてやったのですか」
「……はい」
ベルトは少し間を置いた。
「ガルディアス陛下が心配で?」
「はい」
「そうですか」
ベルトは手当てを終えて、道具をまとめた。それから、いつもより少し柔らかい声で言った。
「陛下も、無事でございました」
「はい」
「それで、よかったと思います」
「……ベルトさん」
「はい」
「ありがとうございます」
ベルトは一礼して、部屋を出ていった。
シンは寝台に腰を下ろして、膝の手当てをされた部分をそっと見た。
ガルが無事だった。
それだけで、今日は十分だと思った。
でも、同時に——胸の中がうるさかった。
ガルに抱えられていた時の感覚が、まだ残っていた。心臓の音が聞こえた時のことが、頭から離れなかった。怒っていてもありがとうと言われた時の、ガルの声の温度が。
「……どうしよう」
シンはそっと自分の胸に手を当てた。
うるさかった。心臓が、うるさかった。
これが何なのか、今日はもう、わからないふりをするのが難しかった。
好きだ、という言葉が、頭の中でゆっくりと形になっていた。
「……困った」
誰にも聞こえない声で呟いて、シンは天井を見上げた。
ガルは王だ。狼族の王で、強くて、賢くて、自分とは何もかも違う。そんな人に、自分みたいな不幸体質の黒猫が——。
「でも」
シンは目を閉じた。
ガルはいつも言っていた。お前がいいと。お前でいいと。
その言葉が、今日は特別に、胸の奥まで届いていた。
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翌朝。
ガルに呼ばれた。
執務室に入ると、ガルは昨日の疲れなどまるでなさそうな顔で書類を見ていた。シンが入ってくると、書類を置いて向き直った。
「座れ」
「はい」
シンが向かいに座ると、ガルはしばらくシンを見ていた。
「昨日のことだが」
「……はい」
「怒っている」
「わかっています」
「前線に来てはいけなかった」
「……はい」
「危険だった」
「はい」
「お前が怪我をしたかもしれなかった」
「はい」
ガルは静かに言葉を重ねた。シンはひとつひとつ、素直に頷いた。
「……わかっているなら、なぜ来た」
「体が動いたので」
「考えてから動け」
「考えたら来られなかったと思うので」
ガルが、眉間に力を入れた。
「それは——」
「ガルさんが痛みで動きが鈍くなっているのが、伝令の話でわかって。痛みが出ているのに前線にいるなんて、そんな、無茶です。それで——怖かったです。何かあったらって思ったら、足が動いていました」
シンはそう言ってから、少し俯いた。
「怒っているのはわかっています。でも——後悔していないです」
ガルは何も言わなかった。
シンが恐る恐る顔を上げると、ガルの表情が少し、変わっていた。
眉間の力が抜けていた。
「……後悔していないのか」
「はい」
「それは困る」
「困りますよね、でも」
「お前が無茶をするたびに、俺の心臓に悪い」
シンは少し目を丸くした。
「……ガルさん、心臓に悪いって言いましたか」
「言った」
「それは、つまり」
「つまり、という話ではない。事実だ」
「でも、心臓に悪い、って」
「シン」
「はい」
「今は怒っている話をしている」
「わかっています、でも今の発言が気になって」
「後で聞け」
「後でちゃんと聞きますよ」
「……わかった」
ガルは小さくため息をついた。それからシンをまっすぐ見た。
「次からは、俺の指示を待て」
「次は……次があるといいんですが、ないに越したことはないですよね」
「そうだが、万が一の話だ」
「……わかりました。でも、ガルさんが危ない時は」
「その時は」
「行きます」
ガルは、シンを見た。
何か言おうとして、やめた。
それからため息をもう一回ついて、静かに言った。
「……お前は本当に、言い切るな」
「ガルさんの影響だと前にも言いました」
「俺のせいにするな」
「ガルさんのせいです」
ガルは口の端を、ほんのわずかに上げた。
「……怒っているのに、笑いたくなる。お前といると」
「それは褒めていますか」
「褒めている」
「ありがとうございます」
静かな時間が流れた。
「シン」
「はい」
「ひとつ、聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は今——俺のことを、どう思っている」
シンは、固まった。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
「……それは」
「答えたくなければ、今日でなくていい」
「いや、でも」
「無理に言わなくていい」
「……ガルさんは」
「なんだ」
「聞いてどうするんですか」
「俺が話したいことがある。その前に、お前の気持ちを聞きたかった」
シンは膝の上で手を握った。
心臓が、うるさかった。
昨日から、うるさかった。
「……好きです」
小さな声だったが、はっきり言えた。
ガルが、静かにシンを見ていた。
「好きで、怖いです。僕みたいなのが、ガルさんのことを好きでいいのかって。不幸体質で、迷惑ばかりかけて、泣き虫で。それでも——好きです。それだけは本当なので」
シンは俯いたまま言い切った。
しばらく、沈黙があった。
「顔を上げろ」
ガルの声がした。
シンがそっと顔を上げると、ガルが立ち上がって、机を回ってこちらへ来るところだった。
シンの目の前に、しゃがみ込んだ。
金色の目が、真正面からシンを見た。
「不幸体質で、迷惑をかけて、泣き虫な黒猫が好きだと、俺が何度言えばわかる」
「……何度も言ってくれていますけど」
「まだわからないか」
「少しずつ、わかってきています」
「その少しずつが、随分かかっている」
「すみません」
「謝るな」とガルは言った。「ただ——もう少しかかりそうか?」
「……どういう意味ですか」
「お前に、俺の隣にいてほしい。正式に」
シンは、息を飲んだ。
「それは」
「番として、傍にいてほしい」
心臓が、止まりそうなくらい鳴った。




