表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/29

第二十一話 涙が、奇跡を起こした日

ダーウィン侯爵の手の者が捕まって三日後。

今度は、正面からだった。

その日、王宮に一通の書状が届いた。ダーウィン侯爵からの、宣戦布告に近い内容だった。狼族の王権の弱体化を狙い、近隣の小国二カ国を巻き込んだ連合を組んだという。

ガルは書状を読み終えて、静かにそれを机に置いた。

「ズィーク」

「はい」

「騎士団を出す。準備を」

「すでに始めています」

「俺も出る」

「……わかりました」

シンはその場にいた。

聞いていた。

ガルが出る、という言葉が、胸の中に落ちて、重くなった。

「シンは王宮に残れ」

「でも」

「残れと言っている」

「……わかりました」

素直に頷いた。でも、胸の奥がざわついて止まらなかった。

その日の夕方、ガルは出立の準備をしていた。

シンは廊下でそれを見ていた。騎士たちが行き来して、慌ただしかった。ガルは鎧を纏って、普段よりずっと王らしい、近寄りがたい空気をまとっていた。

それでも、シンは近づいた。

「ガルさん」

ガルが振り返った。

「気をつけてください」

「ああ」

「本当に気をつけてください」

「ああ」

「……本当に、本当に気をつけてください」

「三回目だ」

「それくらい言わせてください」

ガルはシンを見た。

「心配か」

「します、そりゃ」

「俺は負けない」

「それは知っています。でも」

「でも?」

シンは言葉を探した。

うまく言えなかった。

ガルのそばにいることが当たり前になってきた。毎日話すことが当たり前になった。隣にいることが当たり前になってきた。それが急に、なくなるかもしれないという感覚が——怖かった。

「……帰ってきてください」

それだけが、出てきた。

ガルは少しの間、シンを見ていた。

それから、大きな手がシンの頭の上に乗った。

「帰る」

「約束ですか」

「約束だ」

「……絶対ですよ」

「絶対だ」

シンは俯いた。

目の奥が、じんとしていた。

「……泣かないですよ」

「泣いてもいい」

「泣かないです、見送りで泣くのは嫌です」

「わかった」

ガルの手が、頭から離れた。

シンは顔を上げて、ガルの目を見た。

金色の目が、まっすぐシンを見ていた。

「行ってきます」は言わなかった。ただ、その目で全部言っていた。

シンも、言葉にしなかった。ただ、頷いた。

________________________________________

それは出立から二時間後のことだった。

王宮に伝令が走り込んできた。

隊が城門を出た直後、伏兵が現れた。ダーウィン侯爵の連合軍の先遣隊が、予想より早く動いていた。ガルの隊は対応したが、数で押されている。ガル自身が前線に出て指揮を取っているが、体の痛みが出始めた——という報告だった。

シンは報告を聞いた瞬間、走り出していた。

「シン様!」

ベルトが叫んだが、止まらなかった。

城門まで、廊下を走った。転んだ。起き上がった。また走った。

城門の外に出ると、遠くに戦闘の音が聞こえた。騎士たちの怒鳴り声と、金属の音と、馬の嘶きが混ざり合っていた。

伝令の兵士がシンを見て青ざめた。

「シン様、危険です! お戻りを!」

「ガルさんはどこですか」

「前線ですが、しかし」

「連れていってください」

「それは」

「お願いします」

兵士は迷った。シンの顔を見て、また迷った。

「……こちらです」

走った。

前線は城門から少し離れた場所だった。騎士たちが陣形を組んで応戦していて、その中心にガルがいた。

シンはガルを見た瞬間、息を飲んだ。

ガルは馬上で剣を振るっていたが、その動きがわずかに鈍かった。痛みが出ている。体の内側を抉られるような痛みが、今まさに来ているのがわかった。

「ガルさん!」

シンの声が届いたのか届かなかったのか、ガルが一瞬こちらを見た。

その隙に、敵の一人が側面から距離を詰めた。

「——っ!」

シンは考えるより先に動いた。

ガルとその敵の間に、飛び込んだ。

何の力もない。武器もない。ただ——間に入った。

「シン!」

ガルの声が、鋭く叫んだ。

敵の剣がシンの方へ向いた瞬間——

シンの目から、涙が落ちた。

恐怖だった。本当に怖かった。でも、ガルを守りたかった。その気持ちが、全部涙になって溢れた。

涙が地面に落ちた瞬間——

光が広がった。

シンにはうまく説明できないような、温かい光だった。柔らかいのに、強い光だった。

それが広がった場所から、敵の足が——止まった。

馬が嘶いて後退した。敵の隊が、じわりと押されていった。

そして。

ガルの顔から、痛みの色が消えた。

嘘のように、消えた。

シンはその場に膝をついた。体の力が抜けた。涙が止まらなかった。

「シン」

ガルが馬から飛び降りて、シンに駆け寄った。

「怪我は」

「ないです、たぶん……でも、足が」

「立てるか」

「ちょっと待ってください、膝が笑っていて」

「無茶をするな」

「ガルさんを守りたかったので」

「お前は——」

ガルはそこで言葉を止めた。

シンを抱き起こして、そのまま抱えた。

「ちょっ、ガルさん、歩けます」

「笑っている膝では歩けない」

「笑いが収まったら」

「収まるまで運ぶ」

「重くないですか」

「軽い」

「それはさすがに」

「軽いと言っている」

シンは観念して、ガルの腕の中でおとなしくした。

涙がまだ、ぽろぽろと出ていた。

「泣くな」

「泣いていないです」

「出ている」

「……怖かったので、仕方ないです」

「そうだな」

ガルの声が、少し、柔らかくなった。

「よく来た」

「怒っていますか」

「怒っている」

「……でも?」

「怒っているが——ありがとう」

シンは、ガルの胸に額をくっつけた。

心臓の音が、聞こえた。

速かった。

——ガルさんも、怖かったんだ。

それがわかった瞬間、また涙が出てきた。

「……泣いています」

「わかっている」

「止まらないです」

「構わない」

「ガルさんが無事でよかった」

「俺もお前が無事でよかった」

「怒っているのに?」

「怒っていても、そうだ」

シンはまたぽろぽろと泣きながら、それでもどこか——笑っていた。

おかしな話だった。

戦場の端で、王様に抱えられて泣きながら笑っている。

でも、笑えた。

ガルが生きていて、怒っていて、抱えていてくれて。

それが、嬉しくて仕方なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ