第二十一話 涙が、奇跡を起こした日
ダーウィン侯爵の手の者が捕まって三日後。
今度は、正面からだった。
その日、王宮に一通の書状が届いた。ダーウィン侯爵からの、宣戦布告に近い内容だった。狼族の王権の弱体化を狙い、近隣の小国二カ国を巻き込んだ連合を組んだという。
ガルは書状を読み終えて、静かにそれを机に置いた。
「ズィーク」
「はい」
「騎士団を出す。準備を」
「すでに始めています」
「俺も出る」
「……わかりました」
シンはその場にいた。
聞いていた。
ガルが出る、という言葉が、胸の中に落ちて、重くなった。
「シンは王宮に残れ」
「でも」
「残れと言っている」
「……わかりました」
素直に頷いた。でも、胸の奥がざわついて止まらなかった。
その日の夕方、ガルは出立の準備をしていた。
シンは廊下でそれを見ていた。騎士たちが行き来して、慌ただしかった。ガルは鎧を纏って、普段よりずっと王らしい、近寄りがたい空気をまとっていた。
それでも、シンは近づいた。
「ガルさん」
ガルが振り返った。
「気をつけてください」
「ああ」
「本当に気をつけてください」
「ああ」
「……本当に、本当に気をつけてください」
「三回目だ」
「それくらい言わせてください」
ガルはシンを見た。
「心配か」
「します、そりゃ」
「俺は負けない」
「それは知っています。でも」
「でも?」
シンは言葉を探した。
うまく言えなかった。
ガルのそばにいることが当たり前になってきた。毎日話すことが当たり前になった。隣にいることが当たり前になってきた。それが急に、なくなるかもしれないという感覚が——怖かった。
「……帰ってきてください」
それだけが、出てきた。
ガルは少しの間、シンを見ていた。
それから、大きな手がシンの頭の上に乗った。
「帰る」
「約束ですか」
「約束だ」
「……絶対ですよ」
「絶対だ」
シンは俯いた。
目の奥が、じんとしていた。
「……泣かないですよ」
「泣いてもいい」
「泣かないです、見送りで泣くのは嫌です」
「わかった」
ガルの手が、頭から離れた。
シンは顔を上げて、ガルの目を見た。
金色の目が、まっすぐシンを見ていた。
「行ってきます」は言わなかった。ただ、その目で全部言っていた。
シンも、言葉にしなかった。ただ、頷いた。
________________________________________
それは出立から二時間後のことだった。
王宮に伝令が走り込んできた。
隊が城門を出た直後、伏兵が現れた。ダーウィン侯爵の連合軍の先遣隊が、予想より早く動いていた。ガルの隊は対応したが、数で押されている。ガル自身が前線に出て指揮を取っているが、体の痛みが出始めた——という報告だった。
シンは報告を聞いた瞬間、走り出していた。
「シン様!」
ベルトが叫んだが、止まらなかった。
城門まで、廊下を走った。転んだ。起き上がった。また走った。
城門の外に出ると、遠くに戦闘の音が聞こえた。騎士たちの怒鳴り声と、金属の音と、馬の嘶きが混ざり合っていた。
伝令の兵士がシンを見て青ざめた。
「シン様、危険です! お戻りを!」
「ガルさんはどこですか」
「前線ですが、しかし」
「連れていってください」
「それは」
「お願いします」
兵士は迷った。シンの顔を見て、また迷った。
「……こちらです」
走った。
前線は城門から少し離れた場所だった。騎士たちが陣形を組んで応戦していて、その中心にガルがいた。
シンはガルを見た瞬間、息を飲んだ。
ガルは馬上で剣を振るっていたが、その動きがわずかに鈍かった。痛みが出ている。体の内側を抉られるような痛みが、今まさに来ているのがわかった。
「ガルさん!」
シンの声が届いたのか届かなかったのか、ガルが一瞬こちらを見た。
その隙に、敵の一人が側面から距離を詰めた。
「——っ!」
シンは考えるより先に動いた。
ガルとその敵の間に、飛び込んだ。
何の力もない。武器もない。ただ——間に入った。
「シン!」
ガルの声が、鋭く叫んだ。
敵の剣がシンの方へ向いた瞬間——
シンの目から、涙が落ちた。
恐怖だった。本当に怖かった。でも、ガルを守りたかった。その気持ちが、全部涙になって溢れた。
涙が地面に落ちた瞬間——
光が広がった。
シンにはうまく説明できないような、温かい光だった。柔らかいのに、強い光だった。
それが広がった場所から、敵の足が——止まった。
馬が嘶いて後退した。敵の隊が、じわりと押されていった。
そして。
ガルの顔から、痛みの色が消えた。
嘘のように、消えた。
シンはその場に膝をついた。体の力が抜けた。涙が止まらなかった。
「シン」
ガルが馬から飛び降りて、シンに駆け寄った。
「怪我は」
「ないです、たぶん……でも、足が」
「立てるか」
「ちょっと待ってください、膝が笑っていて」
「無茶をするな」
「ガルさんを守りたかったので」
「お前は——」
ガルはそこで言葉を止めた。
シンを抱き起こして、そのまま抱えた。
「ちょっ、ガルさん、歩けます」
「笑っている膝では歩けない」
「笑いが収まったら」
「収まるまで運ぶ」
「重くないですか」
「軽い」
「それはさすがに」
「軽いと言っている」
シンは観念して、ガルの腕の中でおとなしくした。
涙がまだ、ぽろぽろと出ていた。
「泣くな」
「泣いていないです」
「出ている」
「……怖かったので、仕方ないです」
「そうだな」
ガルの声が、少し、柔らかくなった。
「よく来た」
「怒っていますか」
「怒っている」
「……でも?」
「怒っているが——ありがとう」
シンは、ガルの胸に額をくっつけた。
心臓の音が、聞こえた。
速かった。
——ガルさんも、怖かったんだ。
それがわかった瞬間、また涙が出てきた。
「……泣いています」
「わかっている」
「止まらないです」
「構わない」
「ガルさんが無事でよかった」
「俺もお前が無事でよかった」
「怒っているのに?」
「怒っていても、そうだ」
シンはまたぽろぽろと泣きながら、それでもどこか——笑っていた。
おかしな話だった。
戦場の端で、王様に抱えられて泣きながら笑っている。
でも、笑えた。
ガルが生きていて、怒っていて、抱えていてくれて。
それが、嬉しくて仕方なかった。




