第十九話 嵐の前の、穏やかな日々
ルカが去ってから、一週間が経った。
王宮の日常は、相変わらずだった。
シンは毎朝ベルトに起こされ、朝食の席で何かをこぼし、廊下で誰かとぶつかり、子どもたちと中庭で遊び、夕方にガルと少し話して、夜に眠る。そういうリズムが、気づけば当たり前になっていた。
不幸体質は一向に治る気配がなかった。
今週だけでも、洗濯物を風に飛ばされて木の上に引っかけた。書庫で本棚に寄りかかったら棚ごと倒れた。ズィークの騎士団の朝礼を覗こうとして足を滑らせ、整列していた騎士たちの前に盛大に転がり込んだ。
最後のやつはズィークに無言で引っ張り起こされて、騎士たちに「大丈夫ですか」と一斉に言われるという地獄のような体験だった。
「……また白髪が増えてる」
シンがそっとベルトに言うと、ベルトは「気のせいでございます」と即答した。
「本当に?」
「本当でございます。ただ、最近は増える速度が上がっている気がしないでもない、かもしれません」
「すみません」
「いいえ」
ベルトはきっちりとした一礼をして廊下を去っていった。その背中がなんとなく以前より丸くなっている気がして、シンはまた申し訳なくなった。
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ガルとの時間も、少しずつ変わってきていた。
以前は執務室に呼ばれて向かい合って話す、という感じだったのが、最近はガルの方からシンのいる場所に来ることが増えた。
「何をしている」
ある日の午後、北の庭でシンが地面に寝転がっていると、ガルが現れた。
「雲を見ていました」
「雲を」
「あの雲、ベルトさんに似ています」
「……どれだ」
「あの細長いやつ。なんか、背筋が伸びている感じで」
ガルはシンの隣にしゃがんで、空を見上げた。
「……確かに似ている」
「でしょ」
「あそこの丸いのはズィークか」
「え、どれですか」
「右の方だ。なんか、ごつい」
シンはくすくすと笑った。ガルも珍しく声に出して笑った。低くて短い笑い声だったが、シンには聞き慣れた音になっていた。
「ガルさんに似た雲はどこかな」
「どれだと思う」
「……あの、一番上にある、でかいやつですかね」
「でかいやつ」
「存在感があって、他の雲と離れているので」
「それは褒めているのか」
「褒めています」
「……そうか」
ガルはそのまま、シンの隣に腰を下ろした。二人並んで、空を見上げた。
しばらく何も言わなかった。
「シン」
「はい」
「最近、よく笑うようになった」
「……そうですか?」
「来たばかりの頃より、ずっと」
シンは空を見たまま、少し考えた。
「ここにいると、笑えるので」
「何がある」
「別に、特別なことはないですけど。なんか——毎日、小さな面白いことがあって。ベルトさんの顔とか、ズィークさんのぶっきらぼうな優しさとか、子どもたちのこととか」
「俺のことは」
「……ガルさんのことは、一番面白いですよ」
「面白い?」
「怖そうに見えるのに、雲でズィークさんを探すので」
「それは俺が言い出したことではない」
「でも乗っかってくれましたよね」
「……お前が楽しそうだったから」
シンは空から目を離して、ガルの横顔を見た。
そっぽを向いていた。
「……ガルさん、今、照れていますか」
「照れていない」
「耳の先が赤いです」
「毛並みの色だ」
「狼族の耳は銀色ですよね」
「……やかましい」
シンはまた笑った。
ガルはそれを横目で見て、口の端を上げた。
「笑い過ぎだ」
「ガルさんが面白いので仕方ないです」
「俺は面白くない」
「面白いです」
「……お前は言い切るな、何でも」
「ガルさんの影響です」
「俺のせいにするな」
「そうですよ、ガルさんがいつもはっきり言うから、僕もはっきり言えるようになってきました」
ガルはシンを見た。
何か言いかけて、やめた。
それからまた、空を見上げた。
「……それなら、いいことだ」
静かな声だったが、その言葉には確かな温もりがあった。
シンは空を見上げながら、胸の中が温かくなるのを感じた。
——こういう時間が、好きだ。
まだうまく言葉にできないけれど。確かに、好きだと思った。




