第一話 婚約破棄の朝
ルカ・シルバーミストは、猫族と人族の混血だ。薄い銀色の髪に、透き通るような灰色の瞳。端整な顔立ちで、シルバーミスト家の一人息子。フェルノワール家とは古くから縁があり、シンとは幼い頃から婚約関係にあった。
二家の間で結ばれた、いわゆる取り決めではある。それでもシンにとってルカは、ずっと「自分のそばにいてくれる人」だった。少なくとも、そう思っていた。
雨が少し弱まった隙を見て、シンはシルバーミスト家へと向かった。
応接室に通されると、ルカはすでにそこにいた。白いシャツの襟元をきちんと整えて、窓の外を向いていた。シンが入ってきた気配に気づいても、すぐには振り向かなかった。
「……ルカ? 急に呼び出すから、何かと思って」
シンが声をかけると、ルカはゆっくりと振り返った。その顔を見た瞬間、シンの胸にざわりと嫌な予感が走った。
いつもどこか飄々としていて、ちょっとした軽口を好むルカが——今日は妙に、硬い顔をしていた。
「シン。座って」
「……うん」
促されるまま、シンは向かいのソファに腰を下ろした。ルカは座らず、テーブルの端に手をついたまま立っていた。その手が、かすかに張り詰めているのがわかった。
重い沈黙が、部屋に漂う。
「……言いにくいことなら——」
「婚約を解消したい」
シンの言葉に被せるように、ルカがはっきりと言った。
一瞬、意味が処理できなかった。
「……え」
「婚約を、解消したい。それを伝えようと思って、今日呼んだ」
「な、んで」
「正直に言う。……シンといると、ろくなことが起きない」
「それは」
「先月、俺が怪我したのも。先々月、家の馬車が壊れたのも。その前も、その前も——全部、シンが近くにいた時だった」
「それは、偶然で」
「偶然が重なりすぎている」
ルカの声は静かだった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ淡々と、事実を並べているだけだった。それがかえって、シンの胸の奥深くまで刺さった。
「俺はシンが嫌いなわけじゃない。でも正直に言えば——怖いんだ。シンのそばにいることが。何か大きな不運に巻き込まれるんじゃないかって、ずっとそう思ってた」
「…………」
「両親も心配している。家業にも影響が出てるって。シン、わかるだろ。これ以上一緒にいることは、俺にとっても——」
「わかった」
シンは静かに言った。
ルカが、少し目を見開く。
「え?」
「わかった、って言った。……もういい」
自分でも不思議なほど、声が落ち着いていた。泣きたいのか、怒りたいのか、よくわからなかった。ただ胸の真ん中に、ぽっかりと大きな穴が開いたような感覚だけがあった。
「シン、俺は別に——」
「怒ってないよ」
立ち上がりながら、シンは言った。
「怒ってない。……正直、わかってたから」
「……シン」
「ルカが怖いと思うのは正しいよ。僕は本当に、不幸を呼ぶから。ルカが損をするのは間違いなく僕のせいだから」
ルカが何か言いかけたが、シンはもう振り返らなかった。応接室を出て、廊下を抜けて、玄関から外に出た。
雨は、まだ降っていた。




