プロローグ
朝から、雨だった。
しかも傘を忘れた。
黒猫族の次男、シン・フェルノワールは、ずぶ濡れになりながら市場の軒下に駆け込んだ。軒先から雫が糸を引いて落ちていく。空を見上げると、どこまでも分厚い雲が広がっていて、青い色のかけらひとつ見当たらなかった。
「……今日もか」
誰に言うでもなく、ひとりごちる。
黒猫族にとって、雨は不吉の象徴だ。特にシンのような「純黒」——漆黒の毛並みと金色の目を持つ者——は、古来より「不運を呼び込む」と信じられてきた。迷信だと笑い飛ばす者もいる。しかしシン自身は、生まれてから一度も、その迷信を笑えた試しがない。
実際、今朝だけでもひどいものだった。
起き抜けに寝台から転げ落ち、顔を洗おうとしたら蛇口が外れて水が噴き出し、着替えようとすればシャツのボタンが三つ同時に弾け飛んだ。朝食は皿ごとひっくり返して絨毯を汚し、拭こうとして布巾を引っ張ったら花瓶まで道連れに落ちた。
そして玄関を出た途端、土砂降り。
「……はあ」
深いため息をついた瞬間、隣で雨宿りしていた見知らぬおじさんが、さりげなく半歩距離を取った。シンの黒い耳と尻尾をちらりと見て、微かに眉をひそめた。
慣れた反応だった。
シン・フェルノワール、十九歳。フェルノワール家の次男。黒猫族の中でも特に色の濃い、文字通りの漆黒の毛並みを持ち、家族の中でただ一人の「純黒」だった。父も母も長兄のアルも、黒猫族ではあるものの毛並みには白や灰が混じっていて、「禍々しい黒一色」はシンだけだ。
物心ついた頃から言われてきた。
不吉だ。不幸を呼ぶ。そばにいると良くないことが起きる。
最初は傷ついた。慣れた頃には、もう笑えた。今はただ——疲れていた。
雨がじわじわと軒先まで吹き込んでくる。シンは濡れた前髪を手でざっとかき上げながら、今日の用事を頭の中で確認した。
——そうだ。ルカのところへ行かなければ。
その名前を思い出した瞬間、胃がきゅっと縮んだ。




