第十七話 零れた言葉と、少し変わった距離
ひとしきり泣いた後、シンは酷い顔をしていた。
目が赤くなって、鼻の頭も赤くなって、ガルの上着に涙の染みをつけてしまっていた。
「……すみません、上着が」
「気にしない」
「でも」
「気にしないと言っている」
ガルは静かにシンの頭から手を離した。シンは顔を上げて、目元をごしごしと拭った。涙を拭うたびに、少しだけ体が軽くなる気がした。
ミア婆がシンを見て、にこりとした。
「すっきりしたかい」
「……はい。少し」
「そうかい。ならよかった」
「ミア婆は、どうしてここに来たんですか。わざわざ」
「お前のことが心配だったからさ。それと」とミア婆はガルに目を向けた。「この王に、ひとつ伝えておきたいことがあったからね」
「俺に?」とガルが言った。
「シンの加護はね、持ち主が深く愛されるようになると、性質が変わる」
「変わる?」
「愛されることを知った子の涙は、癒しだけじゃなくて——守護の力を持つようになる。その子が大切に思う人を、涙が守るようになる」
ガルはそれを聞いて、静かな目をしていた。
「それは」とガルが言った。「つまり」
「お前がシンを大切にすれば、するほど、シンの涙はお前を守る。そういうことだよ、狼の王よ」
しばらく、静かだった。
シンは俯いて、自分の手のひらを見ていた。
守護の力。
自分の涙が、誰かを守る。
それはとても、不思議な感覚だった。ずっと不幸を呼ぶと思っていた自分が、誰かを守れる可能性がある。それをうまく飲み込めなかった。
「シン」
ガルの声に顔を上げると、まっすぐな目と合った。
「お前が俺を守ってくれるのか」
「……そんな、大げさな」
「大げさじゃない」
「僕は、ただ泣いているだけで」
「それがお前の力だ」
シンは言葉に詰まった。
「……僕でいいんですか。こんな、不幸体質で、何もできなくて」
ガルはほんの少し間を置いてから、口を開いた。
「何度でも言う」
「……はい」
「お前でいい。お前がいい。それ以外の答えは持っていない」
シンは、ガルの顔を見た。
いつもと変わらない落ち着いた顔だった。でも——目の奥の温度が、いつもより高かった。
「……わかり、ました」
「本当にわかったか」
「……少し、わかってきました」
「少し、か」
「少しずつです、こういうのは」
ガルは口の端を上げた。
「それでいい」
ミア婆がお茶を飲み干して、杖をついて立ち上がった。
「さてと。言いたいことは言ったから、帰るかね」
「もう帰るんですか」とシンが言った。
「遠いんだよ、ここまで来るのは。膝も痛いし」
「……ミア婆」
「なんだい」
シンはしばらく迷って、それから言った。
「ありがとうございます。来てくれて」
ミア婆は皺の深い目を細めた。
「お前が笑って暮らせるなら、それでいい。そのために来たんだからね」
「……また来てください」
「来るよ。次は長居させてもらうかね」
ベルトが青ざめた顔で一礼したが、ミア婆はそれに気づいたのか気づかなかったのか、悠然と客間を出ていった。
シンはその後ろ姿が見えなくなるまで、見送った。
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その夜、シンはひとり、部屋の窓から外を眺めていた。
ミア婆の言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
愛に飢えていたから、泣き続けていた。
愛されることを知ると、守護の力になる。
ずっと、自分は不要な人間だと思っていた。邪魔で、迷惑で、側にいない方がいい存在だと。それが当たり前の感覚として染みついていて、今もすぐにはぬぐえない。
でも——少しだけ。
ほんの少しだけ、その感覚がほぐれてきている気がした。
「シン」
廊下から声がした。
扉の外に、ガルがいた。
「起きていたか」
「……はい。眠れなくて」
「入っていいか」
「どうぞ」
ガルが部屋に入ってきた。窓際に立つシンの隣に並んで、外の景色を見た。夜の王都が、遠くにぽつぽつと灯っていた。
「今日は痛みがありますか」
「今日は大丈夫だ。お前のことが気になって来た」
「……僕のことを?」
「今日、たくさん泣いただろう。疲れていないかと思って」
「疲れていないです。むしろ、少し楽になった気がします」
「そうか」
しばらく、二人で夜の景色を見ていた。
「ガルさん」
「なんだ」
「ミア婆の話、聞いてどう思いましたか」
「どう思ったと言うと」
「僕の涙が守護になるって話。利用価値が上がったと思いましたか」
ガルが、シンを見た。
「なぜそう思う」
「……最初に王宮に来たのは、涙の力を調べるためだって言っていたから」
「そうだったな」
「だから、やっぱり力のために必要なのかなって、少し」
「シン」
「はい」
「俺が今、何を考えているかわかるか」
「……わかりません」
「では言う」
ガルはシンに向き直って、静かに言った。
「お前の涙の力がどうなろうと、俺がお前を傍に置きたい理由は変わらない」
「……それは」
「力があるから必要なのではない。お前だから、傍にいてほしい」
シンは、黙った。
心臓が、うるさかった。
「……それ、本気で言っていますか」
「俺が冗談を言ったことがあるか」
「……ないです」
「ならば本気だ」
シンは窓枠をそっと握った。
頬が熱かった。耳の先まで熱い気がした。
「……まだ、うまく受け取れないです」
「わかっている」
「でも」
「でも?」
「……嬉しいです」
小さな声だったが、はっきり言えた。
ガルが、静かに微笑んだ。
夜の光の中のその表情が、シンにはとても穏やかに見えた。
「それで十分だ」




