第十六話 ミア婆の来訪
その日の午前中、王宮の正門に、ひとりの老婆が現れた。
杖をついた小柄な体に、深い緑色のマントを羽織っている。顔の皺は深く、長い白髪を後ろでひとつに結んでいた。そして——よく見ると、白髪の中に黒い耳がぴんと立っていた。
黒猫族の老婆だった。
「ガルディアス王に会いに来た。ミア・フェルノワールだと伝えておくれ」
門番が困惑しながら報告を上げると、ガルは即座に「通せ」と言った。
ベルトが血相を変えてシンのところへ飛んできたのは、それから五分後だった。
「シン様、ミア・フェルノワールという方をご存知ですか」
「……ミア婆?」
シンは目を丸くした。
「知っているも何も、うちの一族の古老です。フェルノワール家の遠縁で、黒猫族の中で一番長生きしている人で——なんでここに?」
「陛下に会いたいと」
「ミア婆が?」
「はい。それと——シン様にも会いたいと仰っているそうで」
シンは首を傾げながら立ち上がった。
ミア婆のことは知っていた。フェルノワール家に年に一度か二度顔を出す、気難しい老婆だった。シンが子どもの頃から知っているが、ミア婆はいつも、他の大人たちとは違う目でシンを見ていた。不吉だとか、不運だとか、そういうことを一度も言わなかった。ただじっとシンを見て、何か考えているような顔をしていた。
客間に通されたミア婆は、シンが入ってきた瞬間、皺だらけの顔をほころばせた。
「シンや。大きくなったね」
「……ミア婆。久しぶりです」
「ガルディアス王のところにいると聞いて、やっと来られたよ」
「やっと、というのは」
「ずっと待っていたんだよ、こうなる日をね」
ミア婆はそう言って、向かいに座ったガルを見た。年齢も身分も関係ないとばかりに、まっすぐな目だった。
「狼の王よ。シンのことについて、話がある」
「聞こう」
「長い話になるよ。覚悟しておくれ」
ガルは静かに頷いた。
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ミア婆の話は、確かに長かった。
黒猫族の涙の加護については、シンも断片的には聞いたことがあった。黒猫の涙には特別な力がある、という話は一族の中で語り継がれている。ただそれが具体的にどういうものかは、ミア婆のような古老にしか伝わっていなかった。
「黒猫の涙の加護はね、誰にでも宿るわけじゃない」
ミア婆は温かいお茶をゆっくり飲みながら、話し始めた。
「百年に一度、あるかないか。純粋な黒の毛並みを持つ者の中で、特別な素質を持つ子にだけ現れる」
「特別な素質とは」とガルが聞いた。
「深く愛することができる心、と言えばいいかね。人の痛みがわかって、自分より他を先に思える心。そういう子の涙にだけ、癒しの力が宿る」
シンは黙って聞いていた。
「ただね——」ミア婆は少し表情を曇らせた。「その力には、条件がある」
「条件?」
「その子自身が、愛されていないと、力が発動しない」
「……どういうことですか」
シンが思わず聞いた。ミア婆は皺の深い目でシンを見た。
「愛に飢えているほど、涙に力が宿る。長年、愛されずに、傷ついて、それでも誰かを思いやり続けた子の涙だから、あれほどの力になる」
「それは……」
「つまりね、シン。お前がずっと泣いていたのは、ずっと愛に飢えていたからだよ」
シンは、言葉を失った。
ガルが静かにシンを見ていた。
「お前が不運だったのは本当のことだろうよ」とミア婆は続けた。「だが、それだけじゃない。お前は周りに愛されなかった分、自分の中に愛を溜め込んできた。それが涙になって、外に出る」
「……でも、僕は」
「お前は自分が何も価値がないと思っているだろう。ずっとそう言われてきたからね。でもそれは、大きな間違いだよ」
ミア婆の声は、静かだったが、はっきりしていた。
「お前の涙は、この世界で一番温かいものだよ。シン」
シンの喉の奥が、きゅっと締まった。
息を吸うと、鼻の奥がじんとした。
「……なんで」
「なんで、なんだい」
「なんで、そんなことを」
「本当のことだからさ」
ミア婆の声は柔らかかった。
「お前が泣くたびに、周りに幸運が降り注いでいたよ。ただ、みんな気づかなかっただけだ。気づこうとしなかっただけだ」
シンは唇を引き結んだ。
泣きたかった。でも、こんな場所で、ガルの前で、泣きたくなかった。
「シン」
ガルの声がした。
顔を上げると、ガルが立ち上がって、シンの隣に来ていた。
「……来なくていいです、大丈夫ですから」
「大丈夫に見えない」
「見えていても見えなくても」
「シン」
「泣かないです、大丈夫、僕は」
「泣いていい」
その言葉が、すとんと落ちてきた。
シンは唇を噛んだ。目の奥が熱くなって、視界がじわりと滲んだ。
「泣いていいと言っている」
「……ガルさんの前で泣くの、嫌です」
「なぜ」
「みっともないから」
「みっともなくない」
「みっともないです」
「俺が見たい」
「見たいって何ですかそれは」
「お前の涙は、俺にとって特別だ。みっともないわけがない」
シンは、ぐっと奥歯を噛んだ。
でも、堪えきれなかった。
目からぽろりと、涙が零れた。
ガルが無言でシンの頭を引き寄せた。胸に額を押しつけられる形になって、シンはしばらく抵抗しようとしたが、ガルの手が静かに背中に回ったとき——全部、諦めた。
声は出なかった。ただ、静かに泣いた。
ミア婆はそれを見て、温かいお茶をまたひと口飲んで、小さく頷いた。
「そうそう。泣きなさい。ずっと我慢してきたんだから」




