第十五話 夜の執務室と、眠れない王様
その夜、シンはガルの執務室で、ガルの向かいのソファに座っていた。
ガルは書類仕事を続けていた。痛みがあると言っていたが、それを感じさせない様子で淡々と筆を動かしていた。シンはその様子を眺めながら、持ってきた本を読んでいた。王宮の書庫から借りてきた、花の図鑑だった。
静かな時間が続いた。
「シン」
「はい」
「眠いなら寝ていい」
「眠くないです」
「嘘をつくな、三回欠伸した」
「……数えていたんですか」
「自然と目に入った」
シンは本を膝の上に置いて、目をこすった。確かに少し眠かった。でも眠るわけにもいかないと思っていた。
「ガルさんは、痛みはどうですか」
「まだ大丈夫だ」
「まだ、ということはそのうち来るということですよね」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。こればかりはわからない」
「辛くなったら言ってください」
「言う」
「本当に言いますか」
「言うと言ったら言う」
「ガルさん、我慢するタイプだと思って」
「……否定はしない」
「でしょ」
ガルは書類から目を上げて、シンを見た。
「お前は、人のことをよく見ている」
「そうですか?」
「ズィークのことも、ベルトのことも、俺のことも。観察が細かい」
「……気にしすぎなんだと思います、周りのことを。自分のことより、他の人の顔色の方が先に目に入って」
「なぜそうなった」
シンは少し考えた。
「……ずっと、迷惑をかけてきたので。だから、誰かが嫌そうな顔をしていないか、怒っていないか、確認し続けてきたんだと思います。気づいたら習慣になっていました」
「そうか」
「ガルさんは、顔色を読みにくいですね」
「そうか」
「いつも同じ顔をしているので。でも最近、少しわかってきた気がします」
「何がわかった」
「口の端が少し上がる時は機嫌がいい。目が細くなる時は考えている。眉間に力が入っている時は、何か抑えている」
ガルは静かにシンを見ていた。
「……よく見ている」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「褒めています」
「……そう受け取るなら止めない」
シンはくすりと笑った。
しばらくまた静かな時間が続いた。本のページをめくる音と、ガルの筆の音と、時折廊下を歩く見回りの足音だけが聞こえた。
時間が経つにつれて、シンの目蓋が重くなってきた。本の文字が、じわじわとぼやけていく。
「……眠いです」
「寝ろ」
「でも、ガルさんが」
「俺は大丈夫だ。横になれ」
「横になる場所が」
「そのソファで寝ればいい」
「でも……」
「シン」
「……はい」
「ここにいてくれるだけで、十分だ。眠っていい」
その言葉が、どこかすとんと腑に落ちた。
ここにいるだけで、十分だと。
シンはそっとソファに横になった。執務室の暖炉がじんわりと温かくて、毛布の代わりにガルが上着を持ってきてかけてくれた。
「……ありがとうございます」
「眠れ」
「……ガルさん」
「なんだ」
「痛くなったら、起こしてください」
「……わかった」
返事は静かだったが、確かにそこにあった。
シンは目を閉じた。
暖炉の火の音と、ガルの筆の音が、子守唄みたいに聞こえた。
ここにいていい、と思えた。
それだけで——不思議なくらい、すぐに眠れた。
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翌朝、シンが目を覚ますと、執務室の椅子にガルが眠っていた。
書類を脇に避けて、机に腕を組んで、その上に頭を乗せた体勢で、静かに寝息を立てていた。
銀灰色の髪が少し乱れていて、眠っている顔は——思っていたより、ずっと穏やかだった。
シンはしばらく、その顔を見ていた。
怖いとか、威圧的とか、最初に思っていたこと全部が、今は遠い話のようだった。
「……おやすみなさい」
誰にも聞こえない声で言って、シンはそっと上着を畳んで膝の上に置いた。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
穏やかな寝顔が、朝の光の中にあった。
胸の中に、温かいものが静かに満ちてくるのを、シンは感じていた。
それが何なのか、まだ名前はわからなかった。
でも——悪くない感覚だった。




